柄谷行人『ニュー・アソシエーショニスト宣言』

晴。
朝起きたら、家の中で吐く息が白かった。やっぱり隙間だらけの百姓家屋だなあ。

現在だけが存在し、自分以外のすべてが消失していく感覚。そのあとに、自分もいつかは消滅するのだという、かすかな痛みのようなものが来る。

昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。今日は家族の分のドーナツも買う。あいかわらず、ここのミスドは店内が寒い。
『コレクション瀧口修造1』「幻想絵画論」の続き。どれもおもしろいが、クレーのは特に感銘を受けた。この画家は天分に加え、生涯まじめに厳しく自己を鍛錬し抜いたことがわかった。知的な鋭い自己認識。クレーが幻想画家であったかはわたしにはよくわからないが、瀧口がそう考えていたというのはおもしろい。いずれにせよ、ジャンル分けというものにそれほど意味はないのであるし。

我々には無意識が意味ないことをあらためて感じる。凡庸化。表層化。

少しずつ日差しの力が戻ってきている。暦の上では、もう春なのだ。


テヘランでロリータを読む』の続き。

お隣のおばさんが救急車で運ばれたことは以前ちょっとだけ記したが、どうやらそれからほどなくして亡くなられたそうだ。ウチとは長い付き合いで、わたしでも半世紀にわたることになるから、多少の感慨無きを得ない。諸行は無常であるな。


夜。
図書館から借りてきた、柄谷行人『ニュー・アソシエーショニスト宣言』読了。昨日は柄谷行人がイケてないことを書いたが、現在がわかっていなくても、時代遅れでもいいではないかとも思う。理念が求められる時代がまた来ないともいえない。さても、柄谷行人をずっと読んできたわたしは、さみしい時代になったなと感じる。柄谷行人の時代遅れは、わたしの時代遅れでもあるから。まあしかし、わたしが時代遅れでなかったことなどない、というのも確かだ。

柄谷の目標は資本主義と国家の揚棄であるが、しかし、ほんとマジメにそう考えているのだよね。わたしにはそれは、「神の国」の到来を待つことのように思える。イエスの死後まださほど経っていないときは、「神の国」は明日にでもやってくるかのように感じられていた。しかし時代が経つにつれて約束の日はどんどん遠のいていき、いまではそれは行方不明になってしまっている。なんてことを林達夫は革命についてさらりと述べていたと思うが、まさにそれである。わたしには、資本主義と国家の揚棄など、到底可能だとは思えないのだが、わたしの敗北主義かも知れない。柄谷は分業すら否定する*1から、現在の文明は破綻し、例えば近代医療は崩壊して、人間の平均寿命は激減するだろう。近代文明そのものが存続不可能になる。大袈裟でなく、中世への後戻りだ。それはやはり、そのままでは現実に可能と思えない。

*1:p.252。しかしこれは微妙なところかも知れない。分業を認めないのはマルクスで、柄谷は官僚の支配する分業制を認めているようでもある。その弊害への対策は言及されていないけれども。