フランクファート『ウンコな議論』

晴。今日は一転して暑い。どうなっているのか。
午前中は睡眠の後始末でおしまい。
昼から県図書館。何だかタルくて眠い。pha さんではないが、一日中寝て暮らしたい気分。しかしいくら暇人でもなかなかそうはいかない。布団の中でまどろんでいると、このまま永久に目が覚めなくてもいいような気がするが、これもなかなかそうはいかない。夜は仕事あるしな。

図書館から借りてきた、ハリー・G・フランクファート『ウンコな議論』読了。山形浩生氏による翻訳で、以前から頭にあったところ図書館で見つけたので借りてきた。「ウンコ議論」というのは別に「屁理屈」でもいい。なかなかおもしろい本なので皆さんお読みになるといいと思う。ただ著者は哲学者なので、議論は結構むずかしいですよ。読んでいて思ったのは主に二つ。ひとつは、本書は一見ふざけているようで、西洋のある種の古典的哲学者たちのエッセイを思わせること。ベーコンのエッセイとかショーペンハウアーの「パレルガ・ウント・パラリーポメナ」とかね。訳者の山形氏も、多少擬古的な文体を採用している。二つ目は、いわゆるオースティンの言語行為論の「コンスタティブ」と「パフォーマティブ」の区別をどことなく連想させること。コンスタティブというのは発言の内容を文字どおり捉えるもので、例えば歴史を試験のために勉強するときは、我々は教科書をコンスタティブに読まねばならない。パフォーマティブというのは発話の内容よりもその機能を重視するもので、例えば我々が「おはようございます」と挨拶するときは、(何かが)「早い」かどうかというよりも、「挨拶する」という機能の方を選択して発言していることになる。現実には発話行為がいずれか一方だけに所属することはなく、双方のいずれをも含んでいることになるだろう。で、「ウンコ議論」というのは、それがかなり「パフォーマティブ」寄りだということである。まちがった議論というのは、それに対し「コンスタティブ」寄りということになる。
 本書の半分は訳者による解説で、訳者がかなり自説を展開しているのがおもしろい。そもそも元の議論はそれほどオリジナリティのあるものではなく、同じような議論は既に過去に少なくないし、だいたい面倒な議論の経験のある人間なら、誰でも思い当たることが多いだろう。「ウンコ議論」は普遍的であるし、訳者の言うように、悪いとばかりも云えない。だいたい、我々の日々知る如く、政治家の発言・議論の多くはウンコである。しかし、それには何の利点もないとは言えないのだ。それだからこそ政治は厄介だとも言えるだろう。何だか収拾がつかなくなってきたので、これまで。

ウンコな議論

ウンコな議論


僕は政治は想像力の欠如であると思うときがある。それは、政治家・民衆の区別なくそうであろう。民衆も政治を語るとき、また想像力を欠く。どうしてそうしたことになるのか。簡単なことだ。政治はすべての人間を救うことはできないのだ。政治は必ず或る種の人間を抑圧する。虐げる。殺す。政治には必ず欺瞞がある。なのに、政治は必要でもあるのだ。我々すべては、その意味で呪われている。それを知っている政治家も、民衆も殆どいない。いや、皆んな無意識では知っているのかもしれない。