曇。
AIと対話していたとき彼はこういった。「かつての独裁政権は軍事クーデターなどで誕生しましたが、現代では『選挙という正当な手続き』を経て誕生したリーダーが、自ら民主主義を壊していくケースが主流です。」学者もメディアも「市井の賢者」も当てにならないとき、どうするか。いや、自分が答えをもっている、というわけではない。しかし、「語っていること」よりも、「語り方」「文体」が問題なのだよ、と思う。例えば、いかに「正しい」ことをいっていても、仮にそれが上から目線なのだとしたら、あまりよくない(って、わたしはそれをクリアできているか?)。また、「これが真実だ」という主張のしかた、これ自体にも問題がある、なぜなら、事態は多数多様なノードに関連していて、そもそもクリアに答えが出せるような問題でないから、それができるという語り口は、その時点でだいぶ信用にならない。
「国を愛する」ということが、「国を破壊する」。いってみれば、問題のひとつは、そういう、矛盾した構造になっている。とても、クリアな語り口になる筈がない。学者もメディアも「市井の賢者」も、こんなにかしこいが、頭が単純すぎるのだ。
――いやいや、ちがう、大多数が正しいのだろう。わたしはたぶん、うがったことをいっているだけだ。大衆は正しい方向を向いており、日本の未来は明るい。おそらく、そうなんだろう、何の問題もない……。
「現実逃避」の一日になりそうだ。弱い私には、真実が耐えがたい。
NML で音楽を聴く。■シューベルトのピアノ五重奏曲 イ長調 D667 「ます」、ピアノ三重奏曲第一番 D898 で、演奏はシューベルト・アンサンブル(NML)。

■ベートーヴェンの交響曲第六番 op.68 で、指揮はリマ・スシャンスカヤ、ナショナル交響楽団(NML、CD)。感動してしまった。しかし、この「倫理」の崩壊した時代に、ベートーヴェンを聴くとはどういう意味があるのかな。

老父の作った寄植え、1.26 に撮ったもの。
昼。
トイレにいると近くにあるお隣のモチの木の実を食べに来ている鳥たちがピチピチとにぎやかだ。たぶん、多くが鵯(ヒヨドリ)である。
肉屋。豚ロース肉×4 とラーメン用焼豚、これで2641円というのは、高いか安いか。おいしい肉なので、自分には随分と安く感じられる。
曇天の奥に冠雪した伊吹山。街路樹の裸木のイチョウが、すっくと立ち並んでいてこれまた美しい。
図書館から借りてきた、山口尚『幸福と人生の意味の哲学』(2019)をざっと読み終える(途中からは拾い読みした)。副題「なぜ私たちは生きていかねばならないのか」。幸福とは何かとか、人生に意味はあるのか、あるとすればそれは何か、というような、むっちゃ真面目な本。じつに真面目であり、また著者は頭もたいへんによいのであるが――こういう本を読むと、わたしはひどい人間なので、ちょっと茶化したくなる。著者はいっている、「私が最も嫌悪するのは、生の安全で怠惰な継続が保証された環境において何にも真剣に向き合わずヘラヘラと笑い、そうした安全地帯から、何かに必死で向き合うひとを『お気の毒に』と嘲笑するひとびとである」(p.267)と。わたしは、著者のもっとも憎むべきタイプの人間かも知れない。
著者はいう。わたしたちは生きている限り、常に他人を苦しめている。だから、「幸福」などは(ある意味)ないし、あるとすれば、それは欺瞞である、と。いや、これは著者のというより、中島義道の主張かも知れないが。
でも、これは正直、かしこすぎる屁理屈のようにも思える。屁理屈なら、こんなこともいえるかも知れない。わたしたちは現代で生きていればお金を使わずにはいられないが、それは「使う」ということで、誰かの手に渡る。つまりそれは、誰かの所得になるのであり、他人に(お金という下らぬものにせよ)何かを与える、つまり、わたしたちは生きているだけで、誰かの役に立っている、と。でもまあ、これも屁理屈なんだけどね。資本主義はそもそもそんな単純なものじゃない、とか。
著者は最終的に、幸福は超越的であり、語り得ないものである、と結論づけている。まあ、バカな自分には読んでもしっかりとはわからないロジックだった。でも、著者が真剣にやっているのは、否めない。わたしは、「幸福とは何か」なんて考えたことがないし、正直、自分が幸福なのか不幸なのか、ほとんど考えたことがない。(ということは、幸福なんだろうけれど。)でもまあいわせてもらえば、わたしのこれまでの人生はホントにつらいことが多かったし、仮に著者がわたしの人生を生きたとして(無意味な仮定だが)、堪えられたかどうかわからないと思うよ笑。まあ、それはいい。幸福だの不幸だのって、うるせえんだよって、ちょっといいたくなる。
人生に意味はあるのか――著者は「ある」といいたいようだが、わたしは、人生に意味のないのは明白だと思う。いや、子供を作る、というのは、人生の意味といっていいと思うが、残念ながら、わたしには子供がいない。
でももちろん、「人生に意味がない」というのは、弱い我々にとって、堪えがたいことである。だから、我々はどうしても人生に意味を求めずにはいられないし、著者もまたそれを(真摯に)やっている。それでいいんだと思う。
ただ、普遍性をもった、万人に当て嵌まる、人生の意味、そんなのがないのは明らかだと、わたしはいいたい。でも、そんなこと、どうでもいいんだけれどね。誰だって、人生は苦痛だし、人生に意味がないのは(たぶん)わかっているけれど、皆んな(?)ふつうに(?)生きてるじゃん、そうするしかないんだよ。人生はつらいことがほとんどかも知れないが、たまには生きていてよかったっていう、いいことだってあるんだよ。そうやって、ぼくたちは生きている。
夜、早寝。
