日曜日。曇。
いろんな夢を見る。気楽な女の子と気楽にしゃべる夢を見て、いいなと思う。わたしはどちらかというと、「重い」「マジメな」女性と縁があったのだけれど。
明け方の夢は、半分意識的に操作しているそれだった。夢というか、空想に近い。幾何学的な空想。このところアニメとかアニソンの夢を見ることが多かったので、抽象的なのはひさしぶり。しかし、ほんとアニメに脳を「汚染」されているなと思うね。
NML で音楽を聴く。■バルダッサーレ・ガルッピ(1706-1785)のピアノ・ソナタ ニ長調で、チェンバロはルカ・グリエルミ(NML)。ガルッピというとミケランジェリの録音くらいでしか知らないのだが、なかなかよいね。グリエルミはここでも申し分ない感じ。
Sonatas for Keyboard Instruments
- アーティスト:Galuppi, B.
- 発売日: 2010/06/29
- メディア: CD
スーパー。
昼寝。いい季節でつい寝てしまう。
J.M.シング『アラン島』(原著1907年刊行)を読み始める。第一部読了。アラン島については、司馬さんの「街道をゆく」のシリーズのどこかで知った。もう全然覚えていないが、司馬さんもおそらくシングの本の印象を語っていたのではないかと思う。アラン島はスコットランドの西に位置するクライド湾の中の島で、シング青年はそこにおける貧しくも質朴な人々の風貌、習慣、生活を活写している。人々はゲール語を話すが、たいがいは不完全な英語とのバイリンガルであるようだ。土地は貧しい。本書を読むと、誰でも「文明と野蛮」とかいうようなことを考えてしまうだろう。我々は「野蛮」から既に抜け出したが、それはどういう意味をもっていたのか。「野蛮」は価値がないものなのか、むしろその反対ではないのか、と。このようなことを書くと、ロマンティックな「未開へのあこがれ」のようなものだと、いまなら却って批判されてしまうかも知れない。しかし、本当にそんなものなのか…。そもそも、我々は生まれてから「文明」の人工世界の中に生き、比較すべき「野蛮」をもはや知らないではないか…。
- 作者:ジョン・M・シング
- 発売日: 2019/07/10
- メディア: 単行本
いや、エレガントと書いてしまったが、質朴にして高貴とでもいうべきか。言葉はむずかしい。
この本を読んでいると、元来人々の気質というものは風土が作るものだったということに思い至る。だから、土地に精霊たちも居るのだ。現在の人工世界は、どのような人間を作るのか。例えば、ジブリの高度なアニメにエンハンスされた子供たち。もはや、「風土」などというものはほとんど存在しなくなってきている。
型に鋳抜かれたように同じな人々。「個性」をもつことを刷り込まれながら、じつはひどく画一化している。そんなものが「個性」で、「多様性」だとおっしゃるのだ。その画一性は、まさに都市が「個性」を謳いながらどこも似通っていることと同型である。我々の都市は、東京であろうが大阪であろうが、どこでも同じだ。ちなみに、田舎もどこでも同じであり、基本的に都市と同じことである。だから、田舎者の我々はイオンモールが好きなのである。
「個性」といわれているのは、君は「あ」というから僕は「い」だねというようなものである。ただ、ちがうように見えるだけで、何の意味もない。むしろ、同じ「あ」でも僕と君で同じであり得ないというのが、真の差異なのである。それが細かいスノビズムにしか見えないところが、現代における病なのだ。
『アラン島』第二部読了。島民の厳しい生活は、文明化されたへなちょこなわたしならとても耐えられないだろう。その意味では、文明はすばらしい。しかし、シング青年は「野蛮」な生活を送る人々の中に、紛れもない深い感情と叡智をも見出すのである。無知である筈の人々の中に。
#
『アースダイバー 神社編』第三章まで読了。縄文人と倭人(弥生人)は、同じスンダランド出の海民種族として、同じような精神の深層構造をもっていたというのはおもしろい。だから、倭人が北九州に至ると、両者はすぐに認め合い、国家を拒絶するというこれも同じ傾向をもちながら、ゆっくりと混血していったのだと。そのような両者が共通の儀礼を模索していった結果として、神道の原型が作られていった。ゆえに、神道は幅広いスペクトルをもつことになる。——なんと魅力的な仮説であるか。