こともなし

曇。

午前中、甥っ子の勉強を見る。

AtCoder、他。


ジェンダーに関する PC (ポリティカル・コレクトネス)、面倒すぎる。例えば公的な場所に巨乳女子のイラストが貼ってあるだけでムカつく人がいるのだな。それに関する議論を読んだのだが、面倒くさすぎて自分でとても実行できそうにない。これは PC がイカンということではなくて、わたしは広い世間にあまり触れずにこれまで生きてきたので、PC がまだ「内面化」されていないのである。だから、このまま一般的な会社とかにもし勤務したら、絶対にセクハラとかやらかすに決まっている。源一郎さんは大学で『AV女優』というノンフィクション本をこれまで名著として文献に挙げてきたそうであるが、これを「セクハラ」とする学生(たぶん女性であろう)がいて使えなくなったと仰っていたな。わたしは若い女の子をからかったりするのは好きなおっさんだが、まあキモいおっさんというのはわかるけれど、それ以外にこれって絶対にセクハラだよね。つまり、それにふさわしい時間、場所でなしに、女性(あるいは男性)を「性的な」存在と見做してはいけないということである(一種のゾーニング)。もちろんこれまででもそういうおっさんはキモかったわけだが、いまではキモいに留まらないということだ。いや、ほんと、オレマジで遅れている感じ。

まあ、わたしはいまは引き籠もっているから関係ないようなものだけれど。しかし、女性(男性)を「人格として認める」というのと「性的に見做す」というのは、トレードオフするのか? ゾーニングし切れるものなのか? なぜゾーニングが必要なのか? 曖昧ではイカンの? そもそも、わたしはバカすぎて「人格」というのがよくわからない。「人間の尊厳」とかと同じ? ほんとむずかしすぎる。しかし、皆んなじつのところ何にムカついているのかねえ。
 そういや大昔、ある(優秀な)女性に「おっぱいの大きな女はバカに見える」と言われたことがあったけれど、こういうのはどう考えたらよいのか知らん。これもまた、時代を感じる発言だなあと思う。わたしはそう言われて笑っただけだが、いまでは女性の方から問題発言視されるだろうし、いまの女性ならそんなことは決して言わないだろう。
 と思えば、いまのアイドルの「握手会」とかは、わたしには相当にきわどい行為に思える。ああいうのは、「性的な」行為じゃないのかね。おっさんの考えすぎ? あと、いまのアイドルは平気で(?)ランジェリー姿などでものすごい大胆な格好をするのだが、あれもいいのか? ま、簡単にいって過度の「性の商品化」だと思うのだが。ゾーニングされていればいいのかね。あー、時代遅れのおっさんにはマジむずかしすぎる。

はっきり言っていまのわたしは「若い女の子はいいなあ」とふつうに思いますよ。これはふつうに「性的な」目線だと思う(キモいおっさん)。でもまあ、あれらもあと10年20年もすれば、ただのオバハンなので、花の命は短いのである。大したことないといえば、大したことない。ま、オバハンが好きなおっさんもいるけれどね。また、それは別の問題である。さてもどこかに、人格を認めたくなるようなよい女性はいないものか知らん。

ま、その前に自分のクソなのを何とかしろと。ごもっとも。


…しかし、巨乳女子のイラストを見て「心が傷つけられた」として、それはつまりどういうことなのだろう。それで仮に「トラウマになった」、だから「謝罪と治療費と慰謝料を要求する」というのも、論理としてはバカバカしいと切って捨てられない。むずかしい時代だな、いまは。これはどんどん進んでいきますよ、さらに。こころ。コミュニケーション。そんなことばかり議論されている時代でもあるな。

東浩紀氏は「傷つかないコミュニケーションはない」というようなことを仰っていたが、わたしはそれはまさにそのとおりと思いつつ、それでは終わらないよねとも思う。これはいわば知恵だが、論理は知恵を破壊する。浅田さんも、「人を傷つけない表現というのは無意味」とか仰っていたな。これもそのとおりで、そしてこれもこれでは終わらない。論理というのは極端まで突っ走らないではない。
 いまの若い人たちの少なからずが、コミュニケーションによる心の傷に耐えられない。そりゃそうだ、子供のうちにネガティブなものから徹底的に遠ざけられているからな。