吉本隆明『親鸞の言葉』

曇。
昨晩は中沢さんを読んで寝た。このところ新刊をちょびっとづつ読んでいる。僕は中沢さんとか吉本さんを生き延びるために読んでいるので、中身なぞどうであってもかまわない、ということはそうだねないけれども、まあそんなものだ。一種の命綱みたいなものである。それにしても、世界は貧しくなるばかりで、この中で迂闊に生きていると干からびて死んじゃう。これは一見主語が大きいようだけれども、そういうわけではないのです。わたし自身のちっぽけな事情である。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第二番 BWV1047 で、指揮はフィリップ・レッジャー、イギリス室内管弦楽団NMLCD)。モダン・オーケストラによるこの曲集の演奏は既に時代遅れだが、別に時代遅れだってよいではないか、ねえ。■ブリテン弦楽四重奏曲第二番 op.36 で、演奏はドーリック弦楽四重奏団NMLCD)。やはりこれほどの演奏はめったにないと思われる。すばらしいブリテンだ。


イオンモール未来屋書店をひやかしていたら、中公文庫から吉本さんの『親鸞の言葉』という本が出ていたので買った。吉本さんによる親鸞に関する短い論考、吉本訳による親鸞のアンソロジー、それから鮎川信夫とか中沢さんとかとの対談を収めた、文庫オリジナルの編集である。いつものごとくフードコートでドーナツを食いながら、それを読む。わたしにはむずかしいのだが、栄養満点な本であることはまちがいなく、渇が癒える感じがする。以前に吉本さんの『最後の親鸞』は読んでいるのだが、既にあんまり覚えていないな。あと、鈴木大拙親鸞も読みたいと以前から思っているのだが、どういう本に入っているのか知らない。とにかくいまや生きるつらさに対して、(真摯かも知れないが)薄っぺらな本しかなくて、皆んなどうしているのだろうなと不思議に思う。日本の仏教も既にほとんど終了していて、永平寺で二十年間只管打座してこんなものかというような、そんななのがなさけなくなってくる(ま、自分の勘違いかも知れないけれども)。攻勢を掛けてきている東南アジアの上座部仏教にやられちゃえばいいのだと思っています。日本の仏教学の泰斗俊英中堅とかが例えば鈴木大拙を全然理解できなくてめちゃくちゃな批判をしていたりとか、まあしかしそんなことはどうでもいいか。末世も通り越して、いまを何と呼ぶべきなのだろうね。知らぬ。

親鸞の言葉 (中公文庫)

親鸞の言葉 (中公文庫)

おもしろすぎてちょっとたくさん読みすぎた。自分の悪癖である。それから文庫本の人であるわたしは鮎川信夫を読んでいないので、この人も読みたいな。

うんこのようなどうでもよい本を書いている現代のクソ坊主どもは、地獄に落ちますよ、君たち。
トゥラララララー、壊滅の歌。にゃんこ。


吉本隆明親鸞の言葉』読了。つい読み終えてしまった。中沢さんとの対談(既読である)を読んでいて既にあやしかったのだが、梅原さんによる吉本隆明追悼文は反則だろう。センチメンタルなわたしはつい泣けてしまった。まったく恥ずかしい。それは措くとして、吉本さんの徹底した親鸞読解を読んでいると、親鸞と同時に、吉本さん自身の自己理解のようなところが見えてくることがある。その意味で、吉本さんの親鸞読解は、「客観的な」ものではない。我々は吉本さんによる親鸞解体を読むと同時に、吉本さんの自己解体もまた読むのだ。よくもこんなことをしたものだと思うが、つまりそれは現代日本人の意識構造の解体に繋がっている、きわめて重要な作業であると思う。なぜそんなことが必要なのか。それはわたしにはほとんど自明のことであるが、わからない方には本書の中沢さんの発言などが助けになると思う。ついでにいうと中沢さんはそこで小林秀雄の『本居宣長』の重要性についても言及されていて、小林秀雄が最後にぶち当たったのもそれであることを示唆なさっている。
 小林秀雄というのは好きなことを好きなように書き続けた人であったが、僕は橋本治さんを読んでいるとき、『本居宣長』はじつは例外的に、若い人を想定読者にして、若い人たちのために書かれたことに気づいた。そのような本は、小林の中では『本居宣長』だけである筈である。まあしかし、もはや無意味なことは書くまい。わたしはこれに関し、希望をほとんどもっていない。自分ごときの限界も感じている。ぼちぼち、やれるだけのことをやるしかあるまいな。


吉本隆明全集を読む。「戦後詩史論」を読んでいるところなのであるが、いろいろ考えさせられる。こんな文章がある。「つまり無事平穏に生きて、そして年になったならば結婚し、そして子どもを生み、それから子どもにそむかれ、それから老いさらばえて死ぬという生き方が最も価値ある生き方であって、大なり小なり具体的な個々の人間は、そうしたいにもかかわらずそれからそれて生きざるをえない」(全集第16巻 p.112)。「人間の最も価値ある生き方というのは、怠惰に、安逸に、そして今日も無事に明日も無事に、そして生き、そして死ぬということにあるとおもえる」(同 p.129)。いずれも我々に親しい、吉本さんの中核的な思想のひとつである。わたしもまた、人生に意味などがあるとすれば、子供を作って育て、そうしたのちに老いさらばえて死ぬことにしかないと思う。そこからは、妻も子供もいないわたしなどの生は、意味がないという結論がたやすく必然的に得られるが、わたしはそれを肯定する。しかし自分の人生に意味などなかろうが、わたしもまた生き延びたいとは思うのであり、いかに執着であろうがそれはまた仕方がなかろう。ただ思うのは、わたしのような人間が無視できぬほど増えているのが現代であり、わたしなどの生に多少の普遍性が出てきていることだ。つまりは、「最も価値ある生き方」のひとつが、危機に晒されている。まことにもうしわけがないことである。
 それにしても、吉本さんの考えた「ある意味では常に正しい大衆」が、むずかしいところに来ているのは確かだろう。これはインターネットが原因なのか知らないが、インターネットというレンズに照らされて可視化された「大衆」が、とんでもないものであったということである。(わたしも含む)「大衆」というのは「純真素朴」などころか、奇怪な不平不満と脊髄反射と欲望で頭をいっぱいにした屁理屈屋であったという、驚くべき実態が明らかになってしまったのだ。わたしは「子育て」については何も知らないので、現代においても「親」は正しいのかも知れないとは思う。とすればわたしなどは何なのか。エラソーなことはいわず、己をわきまえて黙っているのが正しいのか。

そもそも、「大衆」というのはそんな奇怪なものであったので、あらためていうに及ばないというのが正しいのだろうか。そんな気もするし、それでよいのかも知れない。いまさらわたしなどが力んで危機などといわなくても、どうせ大したことはないのさ、であろうか。そこまでくるとわたしにはよくわからないわけだが。バカみたいにお勉強もせず、ダラダラ生きてそのうち死ねばいいのさ、とか。そんな気もする。

ただ、わたしには何か違和感があるのだな。これでよいのだろうかという根源的な違和感が。これもまた一種の時代の要請であると思う。わたしはエリート予備軍の中で育ってきたが、彼ら彼女らは大雑把にひっくるめていえばものを考えたこともない、どうしようもない無知で幼稚な連中であったというしかない。いまやつまらぬ時代を作ったものだと思うし、そこではわたしなんぞは生きにくくて仕方がない。そしていまの若い人たちはその連中に否を突きつけているのはよろしいが、わたしから見るとちがっているとはいえまた似たようなものでもある。いずれにせよわたしは生きづらい。困ったものだ、わたくし的には。

思いつきで書いたので、何か混乱していますね。まだまだ考え抜いていないな。