エドワード・W・サイード『サイード音楽評論1』

雨。
You Tube でずっと聴いてきたベルチャQのベートーヴェン、消されちゃったな。まあこういうこともあるよね。

バッハのフランス組曲第五番 BWV816 で、ピアノはヴィルヘルム・ケンプ。もとよりケンプは敬愛する大ピアニストであり、最初は賞賛の文字を書こうと思ったのだが、これはちょっとさすがにいけない。あまりにもバッハの原曲に手を加えすぎである。特に(大好きな)ジーグが無慚だ。ロマン派風に改変しており、19世紀風というのか、これは悪趣味である。ホントに残念だ。

池辺晋一郎交響曲第五番「シンプレックス」。いやあ、池辺先生、実力があるなあ。ちょっと池辺晋一郎がわかってきた感じ。すごくおもしろい。「〜風」って言いにくいところがすごい。

武満徹で「燃える秋」。映画音楽であるが、じつに下らない。こういう下らない曲を書けるというのは武満の大きさかとも思うが、それにしてもダサい曲だ。しかし、こういうのを恥ずかしく思ってしまうところが、まだまだ自分も修行が足りない。この程度は平然と聴き流せないといけないだろう。とにかく修行になりました。

ヒンデミットヴィオラソナタ op.11-4 で、ヴィオラはユーリ・バシュメット、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。1985 Live. リヒテルバシュメットの共演があるのだな。まったく You Tubu は油断がならない。リヒテルはこの頃はまだまだ元気で、バシュメットもさすがにすばらしい。曲に集中できる演奏というのがいいね。

某所は大変なことになっていた。あれでは受かるものも受からない。多少でも雰囲気を換えるべく、一〇日間通うしかない。
図書館から借りてきた、エドワード・W・サイード『サイード音楽評論1』読了。サイードが亡くなってどれくらいになるのか。いま Wikipedia を見てみたら2003年没とあるので、もう15年以上が経ったわけか。一時期は『オリエンタリズム』には猫も杓子も言及したものだし、いわゆる「ポストコロニアル理論」はサイードがいなければありえなかったもので、まさしく世界的なスター学者であった。またパレスチナ情勢への関与。いまや、パレスチナの現状は最悪であるのに、ほとんど注目を集めることはなくなっている。サイードが生きていれば、この状況をどう考えるのか、切実なものがある。
 さようにサイードは20世紀を代表するアメリカの知識人のひとりであり、アメリカ人としてはスーザン・ソンタグと並び称される人間であった(いまや二人とも癌で亡くなった後であるが)。サイードは音楽についても造詣が深く、ピアノの腕前も相当なレヴェルだったようである。というか、本書を読めばわかるが、音楽批評家としても超一級であった。だから、正直言って自分に歯が立つような存在ではない。読んでいて痛感されたのは、自分は音楽会にいかず、録音だけで音楽を享受していることと、オペラのことを何も知らないということである。これではクラシック音楽の全体像を正確に把握できる筈がない。サイードにはそれを思い知らされた。
 ただ、自分にはそんな野心はないのである。無名の一音楽愛好家として、それだけで問題ない。それとして言うのだが、例えばサイードグレン・グールドと(1980年代までの)マウリツィオ・ポリーニを絶賛するが、自分はまさしくその二人の録音をデフォルトとして音楽を聴いてきたので、サイードの感覚がちょっと合わない。つまり、サイードの到着点から音楽を聴き始めたということである。僕にはサイードの音楽批評は、ある意味では技術的すぎると思われるし、またある意味では文学的すぎると思われる。こちらの頭が弱いせいだが、読んでいてウンザリするような気分になることもあると、告白しておこう。僕はサイードほど音楽をメカニズムとして捉えてないし、サイードほど音楽に感動も求めない。まあ自分のことにすぎないが、そんな風に思った。もちろん、正しいのはサイードの方なのであるが。

サイード音楽評論1

サイード音楽評論1

僕は幼稚なので、録音されるような殆どの演奏で何かしら興趣を覚える。サイードのように、音楽を「批評する」ということにあまり興味がないのだな(このブログでも、「おもしろかった」とか「感動した」とか、そんなことしか書いていない筈である)。もちろんここでも、正しいのはサイードの方なのであるが。
しかしまあ、「批評」というのは大切でもあるな。それはそうである。それにしても、サイードは糾弾する。愚昧は徹底的に許さない。
正直に書いておくか。僕は本書を読んで、音楽が聴きたくなるという衝動をまるで覚えなかった。例えば吉田秀和さんを読むと、猛烈に音楽が聴きたくなってくることが多いのだが。結局、僕の違和感はそこである。もっとも、ただサイードの言っていることを理解していないだけの可能性が高いが。