エドワード・W・サイード『サイード音楽評論 2』

久しぶりによく晴れた。
 

バッハのシンフォニア全曲 BWV787-801 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。ゴツゴツしたヴェデルニコフのバッハ。すばらしい。


ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第三番 op.69 で、チェロはポール・トルトゥリエ、ピアノはエリック・ハイドシェック。名手たちの共演。こんな見事な演奏はめったに聴けるものではない。名演というべきであろう。


シューマンの「森の情景」op.82 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルリヒテルはこの曲は全曲を弾いているのだな。いわゆる「性格的小品集」では、リヒテルは全曲を弾かないことが少なくないので。それにしても、この巨大なピアニストが、こういうつまらんというか(いや、自分は大好きなのですよ)、ちっぽけな曲も好んで演奏するところがおもしろい。これがまたじつにシンプルで、味わい深い演奏なのだよね。底知れぬ人であるな、リヒテルという人は。

図書館から借りてきた、エドワード・W・サイード『サイード音楽評論 2』読了。ようやく読み終えた。難渋したのは、サイードが巨人ゆえである。自分は(不遜にも)サイードの言うことをすべて受け入れるわけではないが、とにかく音楽評論で、こういう歯応えのあるものは最近ではなかなかない。サイードはもちろん第一には人文学者であり、ポストコロニアリズムはサイードが創始したといってよいが、本格的な音楽教育を受けており、ピアノの腕前もセミプロ級だったというのは有名な話だ。その本格的な知識はクラシック音楽のほぼ全領域にわたっており、驚くべき量の専門書を消化しているのは本書を読むと目が眩むほどである。さらに加えて、強靭な思索力と筆の力は、音楽はサイードのもうひとつの天職であったことを確信させずにはいない。
 本書を読んでいて、確かに自分の音楽の聴き方はサイードとはだいぶちがうなと思わされた。というか、自分は楽譜を見ても頭の中でそれが音になるわけでもない、何の楽器もできない、ただの素人である。それに、極東の田舎に住んでいて演奏会にも出かけないし、オペラも知らない。つまりはお話にならないのだが、しかし、自分をことさら卑下しようとは思わない。何の評論もできないが、それなりに音楽を楽しめているとは思うのだ。サイードは自分のような聴き手をともすれば非難しそうなところがあるが、自分はそれなりに敬虔に音楽を聴いているとも思う。このような聴き方をする者がいても、いいような気がするのだ。もちろん優れた聴き手たちは、音楽というジャンルをさらに豊かにしていってもらいたいと願う者である。
 それにしても、サイードってこのところ読まれているの? まるで管見に入ってこない。忘れ去られていい人だとも思えないが…。

サイード音楽評論 2

サイード音楽評論 2

仕事から帰ってきてテレビを見ながら遅い夕食をとっていたのだが、そのニュース番組で安倍首相が大田昌秀沖縄県知事の県民葬にのこのこ出席しているのを見た。パヨクとして言わせてもらえば、何という恥知らずだろうか、安倍首相は。非国民と思われてもまったくかまわないが、殆ど怒りすら感じた。このような場で、いつもの心にもない軽すぎる口を回すとは。僕はアベノミクスというか、リフレ政策は基本的に支持するが、安倍首相は本当にたまらない。バカとしていわせてもらおう、あの顔がきらいなのだ。みにくくたれさがったほおの肉が軽い口がまわってぶるぶるふるえるのが見ていられないのだ。まったく、売国奴は自分なのか、安倍首相なのか。沖縄をどこやらへ売りわたすのが本当に右翼なのか。沖縄はそもそも日本でないのか。僕は、沖縄を売りわたすやつらを右翼と認めたくない気持ちである。は。

夜半、雨。