家族で池田温泉/佐藤亜紀『小説のストラテジー』

2016年冬_14日曜日。晴。
昨晩 NHK で「ブラタモリ」を見ていたら温泉が出てきて、僕が「池田温泉でも行くか」と言ったら母親が「じゃあ明日行く?」とか何とかで、家族三人で池田温泉に行ってきました。池田温泉ってのは西濃(西美濃)の池田町にあって、たぶんふるさと創生か何かで町が温泉を掘ったところ、泉質のよさで一躍有名(?)になってしまったところである。別に宿泊するわけでも豪華な食事をするわけでもなく、ただ町営の温泉に 500円出して入るだけのこと。元々の「本館」と有名になってからの「新館」があって、後者の方が立派だが、とりあえず本館に行ってきました。母が湯の中で常連のおばあさんに聞いたところでは、泉質は本館の方がいいとのこと。いわゆる「肌がつるつるになる」というタイプの泉質で、まあ自分はそれはどっちでもいいのだが、確かに話のとおりでした。本館は朝の 10時からで、それとほぼ同時に行ったのだが、既に結構な人が入っていました。中はそんなに広くはなく、ここより広い温泉はいくらでもあるが、今日はいい天気で、露天風呂が最高だった。朝っぱらからこうして温泉につかっているというのは、極楽みたいなものですね。500円の極楽。
 なお、今日は休日のためか、11時くらいで新館の駐車場は満車だったので、行きたい方は注意です。
 温泉前にある「道の駅 池田温泉」に寄る。ウチで作っていない安い農産物を買ったり、花を買ったり。昼前だったがここもかなり混んでいました。我々は入らなかったが、色いろと食べるところも揃っている。
 あとは帰るだけ。国道21号を東へ。途中県庁のあたりでうどんでも食おうかと寄ったのだが、ちょうど 12時くらいだったので待っている人多数。面倒なので結局 CoCo壱番屋でカレーにした。期間限定というカレーにしたらものすごい量で驚く。両親みたいに少なめにしておけばよかったかな。
 朝九時過ぎに出て昼一時に帰宅。往復でだいたい 50km くらいだったかな。意外とよかったし、楽しかったです。

図書館。
母親が、カレーのトッピングだった牡蠣フライに食あたりしてダウン。上手くいかんもんだね。なので夕食は僕が鍋料理(というほどのものではないが)を作って父と食す。疲れたとか風邪とかノロウイルスとかの可能性もあるが、どうも食あたりらしい。あそこのは、父も一回あったのだよなあ。まあ断定はできませんが。

図書館から借りてきた、佐藤亜紀『小説のストラテジー』読了。何と云うか、読んでいてまったく驚かされた。いや、ウェブ上で読める著者の文章から多少予想はついていたが、それにしてもねえ。はっきり言って、ものすごくレヴェルの高い小説論/フィクション論ではないか。自分が知らなかっただけか。それにしても検索してみればわかるが、著者は恐らく最高レヴェルの攻撃誘発性 vulnerability の持ち主である。とにかく無名人からせよ非無名人からにせよ、ひどく dis られるのだ。本書を読んでわかった気がした。「たかがエンタメ作家風情が」自分よりも頭がよく、知性も感受性も教養も遙かに高いということが認められないのだ。人によってはさらに、「女のくせに」ってのも加わるであろう。まったく心の狭い奴が多いものである。それにしても、一応は知られた批評家の類が、著者に対し明らかな差別用語を平気で使い、それを出版社の方まで問題視せずに活字にしているケースなど、どういうものだろう。下らないことを書いていないで、僕みたいに素直に啓蒙されておけばいいのに。
 さても、僕は一応の時代遅れの教養主義者でもあるので、著者の挙げている(主に西洋の)カノンたちは読んだものも結構あるのだが、自分などはホメロスプラトンアリストテレスキケローもヴォルテールドストエフスキーナボコフユルスナールも翻訳で読んだだけで、それもたいした読解力もなくただ読んだというのに近いので、まったく眩暈を覚えざるを得なかった。どこかエドマンド・ウィルソンを思い出しながら読んでいたのだが、そしたら本書でウィルソンまで軽く一蹴されていて目が点になったくらいである。しかしねえ、著者は絶対ペダンティズムを意識していますよ。もちろん最高のレヴェルの読者を想定するというのは正しいのだが、例えばギリシャ抒情詩なども含む古典文学(ギリシャ・ローマ文学のことです)の、西洋における(知識階級の紋切り型の)知識を要求するのは、それ自体を楽しんでいるとしか思えない。こういうことはもちろん知っておいた方がいいに決っているが、我々は西洋の知識人ではないと言いたくなるようなトリビアに満ちている。まあ、こういうのを「知的な仕掛け」とでも云うのだろうな。
 しかし、とにかく本書のレヴェルが恐ろしく高いのは確か。それがわからないで、著者に対して恥ずかしい人身攻撃をするなどというのは、却ってそのレヴェルの低さを浮き彫りにするだけのことである。虚心坦懐に読むべし。

小説のストラテジー

小説のストラテジー

しかし、本書なんかを読んでいると、自分は本当に小説(あるいは文学)がわかっていないのだなと痛感する。世界的レヴェルのピアニストと、二十歳からピアノを始めたアマチュアとの差みたいなものだ。ただ読んでおもしろいとか言っているだけで、何がわかっているのやら。ドストエフスキーを読んでもミステリーみたいに読んでいるだけで、ちっともポリフォニーだとか思わない。基礎体力がないのですな。