レム・コールハース『S, M, L, XL+』/古沢和宏『痕跡本の世界』

晴。
Lubuntu 12.04 は一応入ったみたい。mozc と Ruby 2.2 をインストール。
ある本質的で重要な感受性が欠けていることに気づく。ずっとこれなしだったのか… orz. 自分ではなかなかわからないものだな。まだこういうことはあるのだろうか。コワいね。
大阪王将岐阜田神店にて昼食。五目炒飯480円。あんまりおいしくない。
冷房しても暑い中で仕事。

レム・コールハース『S, M, L, XL+』読了。めちゃめちゃおもしろかった。幾つかの論文は再読した。コールハースはもちろん世界的な建築家であるが、それは自分の判断できるところではない。しかし、本書が才気煥発、現代建築のホットな部分に鋭く切り込んでいることくらいはわかる。というか、文章家としてもすごいのではないか。それにしても「ジェネリック・シティ」の才気など、現在の自分の周囲の環境の平凡ぶりと、いったい何の関係があるのだろう。でなくとも、岐阜柳ヶ瀬の凡庸なシャッター商店街と、ジェネリック・シティが同時代的であるというのは、何なのか。凡庸なシャッター商店街は、日本全国の地方都市に遍在する。これはたぶん、「現代」ではないのだ。例えば東京と、ちがう時間が流れているのである。それなのに、(無理矢理)同時代的でもあると。
 日本人だから、「日本語を学ぶ」も非常におもしろい。皮肉というわけではないのだろうが、日本人には皮肉にも聞き取れるよね。でも、たぶんこれを自分のことと受け止める日本人は、少数なのではないか。はは、さすがはコールハースと言って、笑うのであろう。自分もこれは自分のこととはとても思えないが、そもそもプロジェクトとか、まったく関係のないこれまでだったのでねえ。

古沢和宏『痕跡本の世界』読了。僕にはあんまり合わないけれど、新大陸発見にはちがいない。それだけでも大したもの。著者は犬山の古本屋の店主さんなのだよね。犬山って近いのだが。まずは、取り敢えず徒然舎さんへ行かないとなあ。この御時世に古本屋をやろうというだけでも、頭が下がる。学生の頃は本当にお世話になった。まあそれで人生を誤ったと云えなくもないけど。人生なんて誤ったっていいんです。
あまり書きたくないのだが、「彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく」とか、レヴェルが低すぎて話にならないし。これ、マジで国会議員? 幼稚園児か何か?(って幼稚園児に失礼か。)誰だって戦争に行きたくないだろ。自衛隊員だって、戦争をせねばならぬとしても日本のためにだからするので、戦争に行きたい筈はないし。こういう言葉はあまり使いたくないのだが、「バカ」という言葉はこういう時には使わざるを得ない。しかし、自民党内の雰囲気がまったくよくわかる。議員たる彼ら彼女らが、国民をどう思っているのか。しかし、武藤貴也議員とやらのブログを読んでいると、僕は左翼だが、右翼の人たちはこういうのに「日本精神」とか云わせておいていいのかと思う。いくら何でもレヴェルが低すぎる。たぶん、碌な本も読んだことがあるまい。これが国会議員とは、まさしく国辱である。
 まあしかし、そんなことはいいと云えばいい。その武藤議員とやらのブログでその反論を読んでいると、何から何までどこかで聞いたような言葉ばかりで、自分で考えた後がまったく見られない。そちらの方が遥かに気になる。確かにそれは「自分の信念」なのだろうが、ツイッターでの「利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせい」という発言も、レヴェルの低い、聞いた風な言葉を繰り返しているだけのことである(しかし、この議員も戦後教育を受けてきたのではないのか? その意味では、戦後教育も問題があったということであろう)。完全な紋切型。もしかしたら集団的自衛権は役に立つのかも知れないが、自分の頭で考えられない国会議員など、役にも立たないし、それどころか、国を誤る元である。自分の頭で考えるというのは、しんどいし、膨大な勉強もせねばならないものだ。それが最低条件である。正直言って、百田某などを勉強会に呼んできてその意見を拳拳服膺しているなど、絶望的にならない方がどうかしている。

 具体的な内容も少し考えてみる。上の武藤議員のブログには、岡本行夫の発言が引いてある。

「一九九四年、イエメンの内戦で九十六人の日本人観光客が孤立したとき、救ってくれたのはドイツ、フランス、イタリアの軍隊でした。二〇〇〇年からだけでも、総計二百三十八人の日本人が十一カ国の軍用機や艦船などで救出されてきました。一九八五年三月、イラン・イラク戦争でイランの首都のテヘランが危機になり、日本人二百十五人が孤立しましたが、日本の民間航空機は、危険だからとテヘランまで飛んでくれませんでした。それを救ってくれたのはトルコでした。トルコ政府は、テヘランに派遣した二機の救出機のうちの一機を日本人救出に当て、そのために乗れなくなってしまった何百人かのトルコ人は陸路で脱出させたのです。日本では報道されませんでしたが、二〇〇四年四月、日本の三十万トンタンカーのTAKASUZUがイラクのバスラ港沖で原油を積んでいた際に、自爆テロボートに襲われました。そのときに身を挺して守ってくれたのは、アメリカの三名の海軍軍人と沿岸警備隊員でした。彼らは日本のタンカーを守って死に、本国には幼い子供たちを抱えた家族が残されました。みんながみんなを守り合っているのです。」

http://mutou-takaya.com/?p=877

しかし、これは国連が定めた「集団的自衛権」とはちがう。集団的自衛権とは、国連憲章によって認められたものであり、「お互いに助け合いましょう」というようなものではない。国連憲章第五一条を引用する。

この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

上のトルコの例は、日本が攻撃されたことに対しトルコが集団的自衛権を発動したのでは明らかにないし、イエメンの内戦もタンカーが攻撃された事例も集団的自衛権の例としては不適切であろう。「1986年、国際司法裁判所ニカラグア事件判決において、集団的自衛権行使のためには上記のような個別的自衛権行使のための要件に加えて、武力攻撃を受けた国がその旨を表明することと、攻撃を受けた国が第三国に対して援助要請をすることが、国際慣習法上要件とされるとした。」(Wikipedia)。集団的自衛権その行使の必要性が曖昧になりやすいため、強い縛りが必要になるからである。例えばかつてカンボジアPKO 活動で日本の文民警察官が死亡しているが、これはもちろん日本による集団的自衛権の行使ではない。自衛隊による現在の PKO 活動も同様である(PKOは「国連平和維持活動」である)。
 このところの議論を聞いていると、「お互いに助け合いましょう」というのが集団的自衛権だとされているが、国際的にそれが常識になったのか。自分にはどうもそこらあたりがよくわからない、というか、たぶんそうなっていない筈である。実際に、政府が言っているのも、「お互いに助け合いましょう」なんてことでないのは、政府が国際的な解釈をなおざりにしていないからである(だから政府の事例の説明が苦しくなっているのである。国際的な「助け合い」なら、とっくに自衛隊はやっている)。集団的自衛権賛成論者は、勝手なことを言わないでもらいたい。