Peter J. Jones『Effective Ruby』/絲山秋子『ラジ&ピース』

雨。台風接近。
散髪。
音楽を聴く。■ベートーヴェン交響曲第七番op.92(ベーム参照)。第二楽章がいい。■スメタナピアノ三重奏曲ト短調op.15(ボロディン・トリオ、参照)。堂々たる名曲。得るところが多かった。演奏もいい。

Peter J. Jones『Effective Ruby』読了。勉強になったけれど、特に後半は僕にはむずかしかった。Rubyメタプログラミングについては、もっと勉強しないとな。

Effective Ruby

Effective Ruby

とある科学の超電磁砲」を観る(参照)。こういうアニメって、入っていくまでがすごく抵抗感がある。慣れてくるとおもしろいのだけれど。画はきれい。
絲山秋子『ラジ&ピース』読了。表題作が最高。絲山秋子の小説を読むといつも書くが、また書く。本当に自分が子供みたいに感じると。大人のための最高の小説だ。自分の人生に、こういう濃い瞬間はないだろう。もっと希薄で、スカスカだろう。僕はむしろそれを悪いこととは思わないが、絲山秋子の小説世界のようなものに感動させられるのは確かだ。人生は、すべて俗なものであると。しかし、その筈なのだが、今では絲山秋子的世界の方が少数派になってしまったのかも知れない。庶民は、庶民でなくなった。今や「萌え」が日本を覆い尽くした。まったく、どうなってしまうのであろうか。自分も、それに加担してはいるのだが。
ラジ&ピース (講談社文庫)

ラジ&ピース (講談社文庫)


大衆の変遷 - 内田樹の研究室
これは一種の、「八〇年代以降、吉本隆明はダメになった」論である。これまで散々云われてきたことだ。内田樹は結局、「大衆が悪い」論である。バブル期、大衆はダメになったと。で、吉本もダメ。まあ、それは正しいのかも知れない。それにしても、高みに駆け上がった内田樹は、何を目指しているのか。我々は確かに堕落した。しかし、そこから始めねばどうしようもないであろう。それこそ、コム・デ・ギャルソンを着てみせることからしか。ま、僕はそんなおシャレじゃないですけどね。吉本さんがそこから始める必要などない筈なのに、あの人はジジイになってもそこから始めてしまうのだ。最終的に吉本さんですら解決はできなかったのだが、何というラディカルさであろうかとは思う。そして、道はそこからしか始まらない。
 しかし、内田樹って前はもっといい加減だったと思うのだが。最近、いつも怒り狂って屁理屈をこいていて、正しいと思うこともあるが興ざめである。仮に日本が滅びたところで(滅びていいと云うわけではないよ、為念)、我々は依然として生きていくのである。いつもこんな風では生活ができない。
 上とは関係がないが。安倍首相は憲法を蔑ろにしていてけしからんという人が居るけれども、それでは論理的に安倍首相の言っていることを反駁できないことに注意すべきである。安倍首相は、今のままの憲法解釈では日本を守れないと言っているからだ。これに対して、先のように主張しても、議論が噛み合わないため、反駁にはならない。なので、さらに「反駁」らしきものとして、憲法学者の多くはそう言っていないぞとか、やるなら憲法を改正してやれということが付け加わるが、それらもきちんとした反駁にはなっていない。憲法学者でも安倍首相を支持する者は居るし(だいたい一般論として、学者の政治的発言には気をつけるべきである)、また本当に憲法を改正していいのかということもあるからだ(今の自民党案に憲法が「改正」されたら、日本はそれこそもうオシマイである)。もし安倍首相を議論で反駁したいなら、これらでは無理。いつまで経っても議論は平行線のまま。もっと考えないといけない筈である。
 僕が見た中では、野党の反論では共産党のがいちばん論理的だった。政府は集団的自衛権行使時における自衛隊の活動を後方支援に限定し、それで自衛隊の安全が保てるというが、後方支援(兵站の確保)というのが最も重要な軍事行動のひとつであることは常識である。だから、後方支援を行う自衛隊は完全に軍事行動を担うことになるし、攻撃される可能性も非常に高い。ここでは(もちろん政府がこのことを知らないということはあり得ないので)、政府は確信犯的に国民を欺いている。共産党はこのことをきちんと指摘していて、安倍首相の答弁もまったくの誤魔化しだったが、残念ながらマスコミの報道では特段の注目はなかった。
 民主党の反論は、特に辻元清美氏のものがひどかった。気持ちはよく出ていたが、それだけのことで、安倍首相の答弁のほうが論理整合的であった。ああいう感情論とも思える手法は、却って政府の方を説得的に見せて、野党としてはダメダメだったと思う。