集団的自衛権?

何で言うことがコロコロ変わるかな。

集団的自衛権 首相見解 日本攻撃意思不明でも行使東京新聞 6/2)
 政府は一日の安全保障関連法案に関する衆院特別委員会で、米国などを攻撃した相手国が日本を標的にする意思を持つかどうか不明な場合でも集団的自衛権に基づく武力行使は可能との見解を示した。中東・ホルムズ海峡での戦時の機雷掃海が念頭にあるが、他のケースでも当てはまる可能性がある。武力行使の要件となる「国民の生命、権利が根底から覆される明白な危険がある」などに該当するかの判断は、政府の裁量次第ということがあらためて鮮明になった。
 安倍晋三首相は、相手国が日本を攻める意思はないと表明しても、他国への攻撃の発生場所や状況から「そうではないという推察も十分あり得る。単純に見ることはできない」と説明。すべての情報を分析し、集団的自衛権行使が可能となる「存立危機事態」に該当するかどうかを「総合的に判断する」と述べた。中谷元・防衛相も、対日攻撃の意思表明がなくても武力行使に踏み切る可能性を「排除しない」と述べた。
 首相は、集団的自衛権に基づく戦時の機雷掃海の必要性が生じるのは、現時点で「ホルムズ海峡しか想定できない」と重ねて表明。集団的自衛権を行使して敵国のミサイル基地を攻撃することは憲法解釈上は可能としつつ、「装備体系を保有しておらず、想定していない」と述べた。
 中谷氏は「専守防衛」に関し、他国が攻撃を受けたときに反撃する集団的自衛権も含まれるとして見解の一部変更を認める一方で、「受動的な防衛戦略という定義はいささかの変更もない」と繰り返した。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015060202000124.html

しかし、ホルムズ海峡の機雷敷設って、どの国がやるのか。政府が念頭に置いている国って、いったいどこだよ。そんなことあり得るのか。政府の想定していない国が敷設するの? そんなこと「想定」していいのか?
集団的自衛権行使が可能となる『存立危機事態』」ってのもよくわからない。「存立危機事態」なら、「集団的自衛権が可能」っていう論理が、まったくわからないのですけれども。だいたい、歴史的に集団的自衛権なるものが行使された事例自体、非常に少ないのに。何か勘違いしているのではないか。
安倍首相はしょっちゅう「自分には責任がある」と二言目には言うけれど、ホント責任があるよ。責任を自覚して欲しい。自己陶酔はまっぴら御免。

安全保障論議について、いま一度考える。集団的自衛権行使を認めるほうが、はるかに合理的、かつ国益にかなう(髙橋 洋一) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
「世界の中で、安全保障条約を結んでいて、集団的自衛権を行使できないといったら、一笑に付されるだけだ。そもそも、集団的自衛権の行使をしない国があれば教えてもらいたいほどだ」と高橋洋一は世界基準を持ちだして自説を正当化している。よくある議論である。しかし、そんな簡単なものではないのだよね。Wikipediaで本当に申し訳ないが、集団的自衛権の項目を見て欲しい。だいたい集団的自衛権というのは、国連が出来て以降に認められた権利で、さほど昔からあってよく知られているものではないらしい。そして、その最初の目的は、常任理事国の拒否権発動に際し、安全保障理事会の許可なしに共同防衛を行うことで、そのために国連憲章に明記されたのである。そして、冷戦期には、NATOWTO といった共同防衛体制のために使われたのだという。これだけでも、そう簡単に日本のケースに当てはめられない。
 そして、歴史的に集団的自衛権が行使されたとされる例を見て欲しい。ハンガリー動乱からアフガニスタン紛争まで、自国の防衛とみなしていいものか疑わしい、碌でもないものばかりではないか。もちろんこれはあくまで 「Wikipedia風情」の記述であり、学問的に問題があるとされれば何も云えないが。
 それから、高橋洋一は中国や北朝鮮をはっきりと念頭に置いているのであるが、政府はこれらの国に関して、一言も言っていないのですけれども。もちろん政府が誤魔化しているので、高橋洋一の言っていることが本音であろうが、高橋洋一は中国や北朝鮮の軍事力に対し、アメリカに守ってもらえというのであろう。その方が安上がりなんだって。で、「日本が集団的自衛権を行使しないといったら、アメリカも助けてくれなくなる」って堂々と言っているのだが、嫌になってくるね。まあ「対米従属」とは云わないが、ではこれまで日本は集団的自衛権を行使すると言ってきていないのだから、アメリカは助けてくれるつもりはなかったんだ。立派な同盟関係である。
 また、高橋洋一は「安保関連法案は、粛々と国会で審議し、違憲かどうかは司法に委ねるのが立憲主義であろう」とも言っているが、「立憲主義」っていう語が誤用である。それこそ Wikipedia でも見てください。ああもう、何だかバカバカしくて嫌になってきた。高橋洋一の著作はリフレ政策の啓蒙書を読ませて頂いて勉強してきたが、何だかわからなくなってくる。

それから、ここここで、軍隊は「ネガティブリスト」と言っているのは考えなくてはいけない。特に前者の方では、そのネガティブリストという語が議論にうまく噛み合っておらず、誤魔化しのように見えなくもない。まあ、あれほど反リフレ派のインチキを嘲弄した上念氏なのだがね。軍隊はリスクが高い。それは確か。しかし、集団的自衛権に限って云えば、反対派はそれを導入した方がリスクは高まると言っているので、それを論証もなしに一刀両断してバカにするのは、いいことだろうか? 中国(上念氏は「支那」と執拗に呼んでいる)に対向するには、アメリカの威を借りたほうがいいと云うのだが、またまた「集団的自衛権がなければアメリカは助けてくれない」論法ですか。立派な右翼ですこと。まったく、何のために日本にアメリカの基地がたくさんあるのかね。今まで、アメリカはそんなことを一言でも言ったのか? そんなことをアメリカが要請してきたことがあったとは、寡聞にも知らなかったことである。日本の態度が卑屈に見えて仕方がない。
 しかし、「戦争とリスク」ということをもう少し考えないといけないな。「リスク」という語で、どこまで戦争という問題が切れるか。「リスク」という語は確率的な概念である。戦争に対し、確率でどこまで迫れるか。例えば太平洋戦争と確率。人の生死と確率。あるいは実存。80%勝てると予想できれば、戦争を仕掛けた方がいいのか、など。どうしてこの七〇年間、日本は戦争をせずに済んだのか。
 なお、僕はすべての有事法制に反対であるわけではありません。例えば自衛隊には「軍法」がない。これでは防衛のためにすら、戦闘行為ができない。防衛のためにでも、戦闘行為が発生すれば人を殺さねばなりません。これは平時では殺人罪になりますが、これを刑法で裁くわけにはいかないのです。特別な立法が必要になります。これは「リスク」とは関係がありません。

前にも書いたことがあるけれど、国家というものは独自の行動論理をもっていて、必ずしも国民の安全と幸福のために奉仕するとは限らない。特に日本国は弱者に対して寛容・公正ではない傾向が強すぎる。それから、「国民は国家のためにある」という発想には、正直言ってついていけない。自分には「国民のために国家がある」としか思えない。それが「非国民」の態度だとすれば、自分はそちらを選ばざるを得ない。だから、国民は国家に対して「批判的」であるくらいでちょうどいいと思うし、ジャーナリズムの態度としても、それは当然のことであると考える。何と云っても、国家は暴力装置をもっている存在なのだから。