関川夏央『中年シングル生活』/小田切徳美『農山村は消滅しない』

日曜日。晴。
めずらしく母の風邪が長引いている。さすがに年齢のせいもあるかも知れない。
中華「龍園」にて昼食。そのあとスーパーで、母用のポカリスエット、バナナ、プリンなどを買う。
風呂掃除。

関川夏央『中年シングル生活』読了。一見エッセイ集風。わびしい中年の一人暮らしの様子が描かれていて、おもしろくてつい先のページをめくってしまうが、段々ウンザリしてくる。リラダンではないが、人生など召使に任せておきたくなるのだ。てな感じでアンビバレントな読書を終えたのだが、阿川佐和子との文庫あとがき対談を読んだところ、これらはフィクションだと云うではないか。感心したね。それでこそ関川夏央だろう。もちろんフィクションというのは言い訳だとか、カモフラージュだとかいう見方もできようし、それがまったく当っていないこともないだろうが、フィクションとした方が絶対におもしろいと思う。文学って意地悪でいいなあ。
 それから、ところどころに挟まれる実名の文学者の話は、以上を措いても感銘を受ける。特に明治の文学者たちのエピソードは関川夏央お家芸だが、いつもどおりじつに素晴らしい。漱石は四〇代で死んでいるのだな。斎藤緑雨の死に関して僕の好きな露伴が出てくるところなど、絶品だった。

田切徳美『農山村は消滅しない』読了。そう簡単に消滅集落なんて言ってもらっては困るという話。危機意識があるからこそ、却って人は考え、実行する。だから、読んでいて、どう思っても都会の話よりおもしろくて、ワクワクさせられる。そうした考える地方というのは、まだ少数派なのではあろうが、そして成功しているのはさらに少数派なのだろうが、それでも元気の出てくる話だとしか云いようがない。いい本です。
 しかし、著者も憤っていることだが、中央の人間はどうしてこう事実を知らないのかね。で、思い込みで田舎を生体手術にかけようとする。とにかく、事実を知らない奴は人の邪魔をするな。それだけは言いたい。そしてこれははっきり言っておくが、田舎がなくなったら都会も終わりですよ。それがわからない人は、勉強不足です。若い人たちでも、僕らの世代よりものを考え、行動する人は多い。それは頼もしい感じだ。馬鹿なおっさんたちが邪魔をしてはいけない。
 翻って自分のところのことを考えると、市街化区域になって集落の人口が増えているくらいだから、本書の議論には当てはまらない。こういうところは、どういうスタンスであるべきなのか。これは宿題だと思った。我ながら、自分たちの事実をまだよく知っていないのだと思う。引きこもり的書斎派なのだから、それぐらいは何とかしないとなあ。
農山村は消滅しない (岩波新書)

農山村は消滅しない (岩波新書)

関川夏央を読んでいて思ったのだが、我々が結婚しないのは、まあ色々な理由があるけれども、いちばん大きいのは、結婚が大きなリスクだということであろう(それもたいていの人が失敗するという)。かつてはそのリスクを必ず引き受けねばならなかったのだが、今は回避して済むようになったわけだ。これ以上の理由は、恐らくない。

夕食のカレー鍋を作る。といっても市販のスープを鍋に入れて、材料を放り込むだけ。肉は母の指示で、軽く焼いてから入れる。母の調子はまだよくない。結局先に休み、僕は父と食べる。食後の後片付け。父が何もしないので、「オジイを甘やかしたのが」などと母が怒っていた。ガスコンロの火をつけることも出来ないからね。ましてや皿洗いなど、したことがあるのか? ま、仕方がないね。

音楽を聴く。■シューマン:ピアノ協奏曲op.54(アルゲリッチ、アレクサンドル・ヴェデルニコフ)。ルガーノ音楽祭の、アルゲリッチの協奏曲を集めたBOX。まず大好きな、シューマンのピアノ協奏曲から聴いてみた。第一楽章はかなり崩した演奏。自分の好みとしては、ポリーニリヒテルのように、構造もきちんとしていますよという演奏を選んできたが、現在のアルゲリッチの魅力に誰が抗し得よう。出たとこ勝負の緊張感が心地よい。とりわけ、聴きどころのカデンツァが最高にファンタジックで、魔法にかけられてしまう。つなぎ的な緩徐楽章も美しいし、終楽章はといえば、この曲最高の演奏のひとつだろう。これはオーソドックスな名演でもあり、細部の魔術もただ聴き惚れる。最終部などは本当に感動してしまった。今、アルゲリッチ以上の魔術師はいないと確信する。指揮のヴェデルニコフも第一楽章こそ苦労しているようだが、充分に好サポート。現実のリサイタルだったら堪らなかっただろうなあ。
 それから、アルゲリッチのソロも聴きたいという人が結構いるが、もちろん気持ちはわかるけれども、アルゲリッチは共演者がいた方がテンションが高い。それに、ソロでは自由すぎて自分で持て余し気味のところが時にあるが、共演者がいる場合は却ってのびのび弾けるかのようだ。こういうタイプの音楽家なのだと思う。
Lugano Concertos

Lugano Concertos

■リスト:巡礼の年第三年(ベルマン、参照)。これは見事。十九世紀的ヴィルトゥオーゾと云われるベルマンだが、ごく自然な音楽づくりだと思う。内省から爆発的な強音まで、芯のある音で聴き応えがたっぷりだ。「巡礼の年」の代表的な名演と云われるのも当然であろう。曲も、リストが派手な名人芸だけの音楽家ではないことをはっきりと教えてくれる。