中村元『龍樹』

晴。
朝ふつうに起きたら、我慢できないくらい眠い。仕方なくもう少し寝る。このところたくさんの睡眠を必要としている。どういうことだろう。
電子書籍リーダーなんて云うと若い人が使うものだと思われるかも知れないが、じつは年配の方たちにもお薦めなのである。というのは、電子書籍を読むときに活字の大きさが自由に変えられるので、老眼になっておられる方々には有り難いらしい。ウチの母も既に老眼なので、それもあって喜んで Kindle を使っている。相当大きな活字で読んでいますよ。それから、もうモノは増やしたくないので、それもいいということらしい。そういう考え方もあると思います。ハードルは Wi-Fi の接続とかなので、最近の機械が苦手な方は、誰か聞く人があるといいですね(メーカーのサポートでやれるのではないか)。パソコンでインターネットが出来ている人なら、大丈夫です。

図書館から借りてきた、中村元『龍樹』読了。うーん、どうしてこれまで、中村元を読んでこなかったのかな。もっと早く読むべきだった。
 自分はもちろん仏教に関して素人で、好き勝手に読んでいるだけであるが、本書には驚かされた。以前漫然と『中論』を読んだときは、その否定論理がよくわからなかった。まあレヴェルはちがうが、西洋での龍樹研究でも多くは似たようなもので、龍樹は多く虚無論者(ニヒリスト)とされているらしい。素朴に読めば、確かにそんなところであるが、本書に拠れば、『中論』は「説一切有部」の「法有」に対する反論として読むべきだという。それはちょうど、西洋哲学における、実念論に対する唯名論の反論とほぼ同じだと、本書は主張する。これは非常に説得的な解釈で、これならば『中論』の全体が洵に無理なく読めることになるのは明らかだ。そして本書は、『中論』の核心は、「縁起」にあると主張する。実際に本書に当たられたいが、ここで云う「縁起」は、因果関係のことではない。世界の一切が、互いに関係があるということを指し、本書でも云われているとおり、華厳の立場に非常に近い。そこから、AとBは必ずお互いに関係があるがゆえに、「AでもなくBでもない」という論法になるのである。すなわち、それら両者は切り離すことができない。よって、『中論』で有名な「空」の思想は、それは(「有」に対する)「無」とはちがって、ほぼ「縁起」と同じことだと云うのだ。「有でもなく無でもない、これが空である」とはそうしたことなのである。これはじつに説得的であり、龍樹の立場が大乗仏教の源流に位置するというのも、洵によくわかる話ではなかろうか。
 それにしても、これはサンスクリット原典と漢訳、チベット語訳を自由に活用できる著者ならではの成果であり、漢訳に核心的なレヴェルで問題が多いというのは、驚くべきことではないだろうか。漢訳だけに頼っていては、このような結論は決して出なかっただろう。そして、その精緻な読み込みは圧倒的である。それは瑣末どころか、龍樹解釈の本質を決定するほどクリティカルだ。また、記述はまったく平明であり、誰にでもわかる文章で書かれている。著者の本は、もっと読んでみたい。

龍樹 (講談社学術文庫)

龍樹 (講談社学術文庫)

しかし、『中論』で「生成」もなければ「消滅」もないというのは、自分には難解である。華厳ではこの点、どうなのか。物理学では、量子論的な「真空の海」では、粒子の生成と消滅が絶えず起っているというのだが。もっと考えないといけないなあ。
これはまたロマンティックな。二十年ぶりくらいに再読したが、いいねえ鴎外。まるでシューマンピアノ曲のように瑞々しい。近代文語文の雰囲気と相俟って、極上の逸品となっている。