宮家準『修験道』

晴。
音楽を聴く。■シューベルト弦楽四重奏曲第三番D36(コダーイQ、参照)。■シューマン交響曲第三番op.97(ティチアーティ、参照)。この曲の演奏に限って云えば、不満がいっぱい。もっとたっぷりとした響きを出して欲しかった。テンポも速すぎる。この曲は「ライン」と呼ばれることがあるが、とてもそんな大河が彷彿としてこない。もっと悠揚迫らぬ感じが欲しい。■ストラヴィンスキー:ペトリューシュカ(シャイー、参照)。シャイーらしく、この曲も完全に消化している。まるでラヴェルでも聴いているかのように、抵抗感がない。しかし、角が丸くなりすぎて、いつもこの曲に感じる鮮烈さ、ワクワク感は確実に減退している。その辺が不満と云えば不満。正直言って寝そうになった。

ひどい下痢。
図書館から借りてきた、宮家準『修験道』読了。門外漢に修験道をわかりやすく説くというような本ではない。大量の固有名詞が羅列してあり、これを読んだだけでは却ってわからなくなりそうである。そもそも、修験道自体が雑多なものの混淆であることは、本書が示しているとおりだ。仏教にも神道にも関係があるが、少なくともその初期は、仏教の輸入と切り離せなかったのではないか。もっとも、それは本書ではわからないことである。歴史的には、空海も山野を巡るいわゆる「雑密」の修行者だったのであり、修験道はかかる者たちの継承なのであろう。しかし、修験道における歴史的伝承は、多くが後世に偽作されたものと思われ、はっきりとしたことは本書でもわからない。あまりにも伝説が多い、というか、修験道は伝説の塊である。また、いわゆる「験力」(超能力)をつけたい人たちも多く参加してきたようで、一応目的というのは「仏」になること(即身即仏)である筈だが、そこらあたりはなかなか複雑なのである。本書は、その辺のことは(恐らく意図的に)ぼかしてある。著者は修験道と北方シャーマニズムの近親性を指摘しているが、これなどはもっとしっかりと追求して欲しかった。修験道については、他著も参照してみたい。

修験道 (講談社学術文庫)

修験道 (講談社学術文庫)