朝倉友海『「東アジアに哲学はない」のか』

晴。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ協奏曲第二十一番K.467(ゼルキンアバド参照)。■サン=サーンスクラリネットソナタop.167(ナッシュ・アンサンブル、参照)。佳曲。特に冒頭が魅力的。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第七番op.108(エマーソンSQ、参照)。傑作。■シューベルト弦楽四重奏曲第七番D94(コダーイQ、参照)。シューベルトのマイナーな曲を身に付けておくのは、意外と大事だな。

散髪。
朝倉友海『「東アジアに哲学はない」のか』読了。西洋人に「東洋には哲学がない」と言われて、むかついて(?)「いや、京都学派や新儒家があるではないか」ということを論証しようとした本。まあ、そうした目的では、本書を読んでも西洋人はあまり納得しないかも知れない。京都学派や新儒家だけでは、彼らはいかにもみすぼらしく感じるかも知れない。だいたい本書は、西田幾多郎が目指したという「東洋でも西洋でもない、新たな視点」の獲得ではなく、西洋哲学のタームによる「東洋思想」の腑分けであるとしか云えない。別の言い方で云えば、概念を転がして構築していく西洋的な学問方法によるもので、「東洋思想」も頭で理解しているだけだとも云えよう。
 しかし、本書を否定的に読んだと思われるのは本意ではない。はっきりとおもしろがって読みました。著者はまだ若いのだが、優秀なんだよね。目配りが広いし、とてもクリアだ。西田幾多郎(或いは京都学派)論もなかなかだし、そもそも自分は中国の「新儒家」、特に本書で強調される牟宗三(ぼうそうさん)なんて知りませんでしたよ。読んでいてスリリングでした。まあ自分は、西洋人が何を言おうが、「東洋思想」はある意味では西洋哲学より一〇〇〇年以上進んでいる(?)と思っているので、特に痛痒を感じないけれども、東洋の「哲学研究者」としては捨ててはおけないのだろうな。確かに、こういう仕事は必要でしょう。ただ自分は、「東洋思想」は確実に存在すると思っている。もちろんそれは言語化されねばならないのだが、「東洋思想」の性格として、言葉の到達するぎりぎりの地点の営為である。言語化は必須なのに、言語を超えているところがあって、そこが神秘主義に陥っていく陥穽になっている。そこを切り抜けて、核心に迫らなくてはいけない。それが西洋哲学によって見失われなければ幸いです。

しかし、「東洋思想」というとどうしても仏教が問題になってくるのだよね。そして、ともすれば「思想」乃至「哲学」として捉えられている。自分は、仏教はやはり宗教であり、それだからこそ深い可能性があると思っているのだが、比喩的に云えば、最も「唯物論的な」宗教などとも云えるかも知れない。そこが、「思想」乃至「哲学」として理解されてしまう所以だと思う。もちろんどう把握しようとその人の勝手かも知れないが、あまりにも頭で理解されすぎなのだと思わざるを得ない。ただ、思考乃至言語から宗教としての仏教に到達することは、充分可能だとは思う。そこいらがおもしろいところ。例えば禅で、「心理禅」が貶下的に捉えられることがあるように。しかしそれは、西洋哲学のように、繋辞による構築というやり方ではダメである。キリスト教の「神の存在証明」みたいにはいかないのだ。

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