田中仁彦『デカルトの旅/デカルトの夢』

休日。晴。
本の整理。

田中仁彦『デカルトの旅/デカルトの夢』読了。副題「『方法序説』を読む」。これはデカルト研究として、とても面白いものだ。著者は数々の通説を厳しく批判し、新たな解釈を至るところで提示しているが、尽く刺激的である。デカルト研究の権威であるジルソンには特に厳しいが、素人目にはどう見ても著者が(これも)尽く正しい。その理由もはっきりしていて、在来のデカルト研究は、デカルトをとにかく近代人だと証明したいのだ。それに対して著者のスタンスは、デカルトルネサンスにどっぷりと浸かっていたのであり、ルネサンスの崩壊ののちの知的混乱状態に、何とかして一筋の光を見出そうと、必死に努力した人物だと捉えているからである。だから、著者の研究では、デカルトにおける薔薇十字団の影響、フィチーノ経由のプラトニズムの影響などを重視しており、これはとても説得的である。とりわけ、今は失われてしまったデカルトの「三つの夢」なる文章の解釈からして面白く、じつは自分はこの文書のことは知らなかったが、なるほど、これまでの研究者たちがあまり触れてこなかった筈である。それほどショッキング(かつ刺激的な)内容なのだ。また、パスカル(或いはそれを受けた、例えば林達夫)が言っていたことだと思うが、デカルトは出来れば神なしで済ませたかったという説も、これも問題がありそうである。デカルトは神が失われつつあった時代の子であり(本書の「リベルタン」に関する記述を読まれれたい)、無神論に対し、必死で神の存在を証明せねばならなかったのである。それは、自然学に対する二義的な仕事ではなかったのだ。だいたい、これ以前には、神の存在証明というのは基本的に存在する必要がなかったらしい(神の存在証明がなかったということではないですよ)。神の存在は、自明なことと思われていたからである。
 とにかく、本書は大域的な把握から、細部に至るまでとても刺激的であるから、関心のある方は是非お薦めである。いや、その辺のミステリーなどよりずっと面白いことは保証します。それにしても、著者は二十五年後の短い文庫あとがきで、人々の知的怠慢を訴えておられるが、その気持ちは洵によくわかる。本書こそが、挑戦されるべき「通説」になってしかるべきであろうに。まあ、これも著者が述べておられるとおり、それはここだけの話ではない。