晴。
寝坊。不愉快な夢を見る。理由はわかっている。まだまだ未熟。
NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十番 K.330 で、ピアノは野平一郎(NML、CD)。いまちょっと音楽がわからないのだけれど、野平さん、いいのじゃないかな。■スカルラッティのソナタ K.22, K.23, K.24, K.25, K.26, K.27, K.28, K.29, K.30 で、ピアノはカルロ・グランテ(NML、CD)。
東さんダメって人は多いし、それはそれなりに正しいのかも知れないけれど、何か具体的なことをしようって気持ちはあるような気がするのだよなあ。あれやれこれやれっていうやつは腐るほどいるけれど、ほとんど誰も実際にやらないという。自分もだけれど、言うだけ君、口だけ君なのだよね。それにあいかわらずすぐ忘れてしまうので、あの原発事故すらもう誰も思い出さないし、最近の公文書の組織的改竄ももう忘れられている。そのうち消費税増税で景気も悪くなる。別に僕はわざわざ暗いことが書きたいのではないのです。やはりもう、若い人たちに期待するしかないか。我々バブル世代が日本を壊したらしくて、すみませんでしたという気持ちでいっぱい。
主語の大きい話はあまりしたくないのだけれど、いまやどうしてもそうなっちゃう。しかたがない。
いまテレビニュースを見ていたら、公文書改竄については安倍政権、ちゃんと対応したな。これからは懲戒免職も含む処分になるらしい。
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NML で音楽を聴く。■オネゲルの交響曲第三番「典礼風」で、指揮はシャルル・デュトワ(NML、CD)。■オネゲルの弦楽四重奏曲第一番で、演奏はドロルツ四重奏団(NML)。思ったよりずっとハードだった。
基本が大事。
真弓常忠『古代の鉄と神々』読了。何の気なしに本書を読んだが、きわめておもしろい本だった。文庫オビに「イザナギ・イザナミもオオナムチも、鉄を象徴する神だった」とあるが、まあそういう内容でないことはないけれど、上垣外憲一氏による本書解説に、本書の「核心は、日本の弥生時代には褐鉄鉱を原料とする『弥生製鉄』が存在したということ、そしてそれは、日本の地方の古い神社の祭祀から証明できるということである」と、簡潔に要約してある。これのどこがおもしろいのか? もう少し言うと、鉄の融点は1525度、銅のそれは1100度であることより、青銅の使用は鉄の使用に先行したと考えられてきた。しかし、褐鉄鉱による原始的な製鉄技術によると、銅よりも低い温度(700〜800度)で製鉄は可能であり、弥生時代の稲作に鉄器は既に使われていたというのである。ただ、鉄は酸化して腐食しやすく、これまで弥生遺跡からの出土はなかったがゆえに、そのような考え方はなかった。しかし、それは祭祀学によって、証明できるというわけなのだ。実際は祭祀学だけでなく、様々な証拠から著者の仮説は補強されていて、もちろんわたしは古代学について無知であるけれども、とても偶然のこととは思えない。というか、まず証明されたといってまちがいない気がする。まあそれは本書を読んでお確かめ頂きたい。なお、著者の仮説が学界でどう評価されているとかは、もちろんわたしは何も知らない。
本書の仮説は様々なパースペクティブを開くのであり、それも本書のおもしろさのひとつである。例えば、銅鐸は従来、何のために存在したか、はっきりしたことはわかっていなかった。本書の推定は刺激的なものである。また、古代において、「金」とあるのは多くの場合「鉄」のことであったのではないかとか。さらに「モノ」とは何だったのか、まで。古代史に興味のある方は、読んできっと興奮させられるにちがいないと言いたくなるような書物でした。
- 作者: 真弓常忠
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2018/07/09
- メディア: 文庫
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なお、弥生時代の製鉄技術ののちに朝鮮半島からさらに高度な製鉄の技術(韓鍛冶)が伝来し、日本の製鉄のあり方が再編成されていく。このあたりの事情が、神々の争いとして記録されていると本書では説明する。また、製銅と製鉄の争いもまた同様。このあたりもとてもおもしろい。
エリアーデを読む。