小泉義之『デカルト哲学』/橋本治『蝶のゆくえ』

晴。
小泉義之デカルト哲学』読了。まったく感心しなかった。著者の文庫版あとがきに拠れば、原本の新書は好評だったらしいが、へーえという感じである。同属嫌悪かも知れないが、ハッタリの本という印象。例えば、お前本当に仏教を知ってんのかよと言いたくなった。もちろん浅はかな理解なのである。精々経典を少し読んだくらいではないか(いや、それすらもどうだろう)と思ったが、如何? とても仏教を生きているようには思えない。キリスト教に関しても同じである。頭で理解しているだけなのではないの? 自殺に関しても同様。本当に突き詰めて自殺について考えたことがあるのか。ドゥルーズの自殺に関しての噴飯物の解釈を読んでも、浅はかという印象は変らない。こんな風に理解されては、ドゥルーズが気の毒なのではないか。ドゥルーズ研究者だから、ドゥルーズは例外にしたかったのだろうな。これってデカルトについての本なのに、そこで終っているし。意味不明。

橋本治『蝶のゆくえ』読了。短篇集。本文庫には著者自身の「自作解説」があって、これがとても興味深い内容なのであるが、詳しくは取り敢えず措いておいて、そこには「『蝶のゆくえ』は、『生きる歓び』『つばめの来る日』(いずれも角川文庫)に続く、現代を舞台にした橋本治の三作目の短編小説集である」とある。自分は偶々(ではないかも知れないが)前二作も読んでいて、いずれも岩波文庫的傑作であることを疑わない。本書の短編もまたそうなのであるが、これら短編の主人公たちは、いずれもそこいらに居そうな、普通に見える人たちなのに、これまで小説に書かれなかった類であるような気がする。「気がする」というのは、自分があまり小説を読んでいないからで、少なくとも自分は、こういう小説を他で読んだことはない。しかし、本書を読むと、フツーの人(自分もそうだ)というのは、何ともさみしい存在だという感じがする。人間の根底というのは、さみしいものなのだろうか。それは「愚か」と言い換えてもいいのかも知れないが、それは、人は「愚か」でないということは殆どあり得ないからなのだ。そのような「あはれ」さこそ、これら全三作の短篇集の基調音だという気がする。云ってみれば、何か淡色の水彩画のような、不思議な雰囲気があって、小説というものを超えているような感じがある。別に、「お話」としてつまらないことはないのだけれど。
 しかし、著者が自分で書いているとおり、橋本治の小説に賞が与えられたのは、本書が初めてだというのは、殆ど信じられないような気がする。まあ、賞などというのはお遊びみたいなものだが、それでもねえ。ところで、この系列の短編、橋本治は書き続けているのだろうか。そうであれば、それらも是非読みたい。そうでしょう?
蝶のゆくえ (集英社文庫)

蝶のゆくえ (集英社文庫)


山形浩生「経済ジャーナリズム:2014年への展望」
http://cruel.org/other/econjournalism2014.pdf
じつに勉強になるまとめ。山形浩生氏は、個人的な好き嫌いは措いて(というか、正直言って、自分はあまり好きになれないのだが)、どう考えてもその頭のよさを、人のためになることに使っていると思う。エリートとは、こういう人のことを云うのだろう。我々凡人は、ここから多くを学べるし、学ぶべきだと思う。日本の言論の中心は、ちっとも勉強をしていない奴に満ちていることがわかる筈だ。まあ、これも正直言って、自分は日本経済についてなど最近は興味を失いつつあるが、この分野で何がまともかくらいは知っておきたいと思う。(なお、自分はアナクロなので、山形氏が罵倒する対象で、好きな人・ものがたくさんあるのだが。それでもである。)