木村敏『新編 分裂病の現象学』/木山捷平『氏神さま/春雨/耳学問』

曇。雪混じり。
妹一家、名古屋の伯母帰る。

木村敏『新編 分裂病現象学』読了。特に最初の方は難解。著者は「ノエシス」「ノエマ」という語を、フッサールとはだいぶちがう意味で使う。「ノエシス」は、認識の基盤のようなものを指していると云えるだろうか。著者は、「人と人との間」、いわゆる(著者はこの語をあまり使わないが)間主観性の問題を、「ノエシス的身体性における自他癒合の事態」(p.355)と捉えているが、これは思い切ったことを述べたものである。確かに、我々はどこで外界と繋がっているという問題で、自分はこれを、無意識の最下部においてだと思っているのだが(だから、意識というのは、現実界から多重の無意識の層を経て構成されているものと思われる)、ここで他人と、その認識的基盤を共有しているかは難問である。共有するとすれば、ユング集合的無意識などと類似してくるだろう。分裂病などは、その意識の構成が上手くいかない状態のようにも思える。それはともかく、著者のいう「ノエシス的事態」は、我々の中にある「他」とも云える、一種の根底・基底だ。西田哲学が援用されるとおり、これははなはだ「東洋的」発想ではないか。非常に興味深い。

分裂病の現象学 (ちくま学芸文庫)

分裂病の現象学 (ちくま学芸文庫)

木山捷平氏神さま/春雨/耳学問』読了。田舎者が田舎(と云っても、最近市街化区域とやらになったが)で木山捷平を読むとは、こは如何に。都会の人は、田舎っていいなあと思いながら、本書を読むのであろうか。自分は、田舎とは面倒くさいものだと思うのだが。いずれにせよ、本書で田舎は、既に相対化されたものである。それだからこそ、ユーモアが出てくるのだ。木山が上京せず、田舎から出ずに文学をやっていたら、果してどうなっていたであろうか。
氏神さま・春雨・耳学問 (講談社文芸文庫)

氏神さま・春雨・耳学問 (講談社文芸文庫)

また明日から早朝出勤。