佐伯啓思『貨幣と欲望』/高山宏『目の中の劇場』

日曜日。曇。
カルコス。知らぬ間に、平凡社ライブラリーから種村季弘訳のホッケ『マグナ・グラエキア』が出ていた。このレーベルからは時々信じられないような本が出る。

佐伯啓思『貨幣と欲望』読了。「分裂症」と連呼されてうるさいことである。そもそも、「分裂症」という言葉はなく、敢て云うなら「(精神)分裂病」でなければならないし、最近では「統合失調症」と云うべきことになっている。著者が統合失調症について浅墓な知識しか持っておらないことは明らかで、だいたいこの病気は、何かが「分裂」しているわけではない。だからこそ「統合失調症」という名称に変更されたのである。これは非常に複雑な病気で、簡単な要約を許さないし、著者はその「分裂」という部分に引き摺られているところもある。それに、もっと重要なことに、著者には統合失調症患者に対する偏見がはっきりとあるのは問題ではないか。著者は、「主体の欠落のゆえに、分裂症的な現代人は、貨幣や金融やヴァーチャリティの生み出す目まぐるしい快楽刺激装置の依存症となる」(p.397)などと述べているが、果して「分裂病者」は、主体が欠落し、快楽刺激装置の依存症なのであろうか。このような記述を問題にしなかった出版社も、何を考えているのだろうか。
 本書の流れについては触れなかったが、細部がこういうもので、後は推して知るべしである。現代経済学批判として勉強できるかと期待して読み始めたのだが、話にならない。解説が三浦雅士だというのも、ははぁさもありなんと思わされたことだった。


図書館から借りてきた、高山宏『目の中の劇場』読了。面白かったのか何なのか、よくわからなかった。本書を楽しむには、自分は知識も頭脳も足りないことはわかった。例えばこんな文章がある。

…同じ[ヘンリー・]ジェイムズは短篇「密林の中の野獣」(一九〇三)でも、迷宮存在たるわれわれが、世界‐迷宮の中心房で「恐怖」とともに見い出す空無を主題化していて、メルヴィル『白鯨』からフォークナー『アブサロム、アブサロム』(一九三六)へつながる迷宮内実存の原房にみいだされる意味のゼロ度を描く文学を、世紀初頭に媒介していた。(p.216-217)

この文だが、構造としては「ジェイムズは…文学を…媒介していた」となるのだと思うけれども、自分には何を言っているのかさっぱりわからない。著者のことは、 文学通とみなされている多くの人が称揚しているが、彼らはこういうのがわかるのだろうな。また、こんなのも。

そのたくらみへの猜疑ないし破壊工作の只中から、迷宮内[一字傍点]実存としての自己の状況へエゴとエクリチュール巻き込まれてある[強調原文]メセクシスμἑθεξις状況へ向けての、ミメーシスの静態の<突破>から、われわれの時代の迷宮文学が生れ落ちたその経緯[ルビ:ゆくたて]…は、これはいくらでも面白く語れそうだし… (p.246)

だいたい、無知を晒すが、「メテクシス」(「メセクシス」という語は、ぐぐっても出てこないので、これであろう。θεの読みは、普通「テ」である)というギリシア語らしい語の意味がわからない。調べるとどうも「分与」とかそんな意味らしいが、これも博識の人は知っているのだろうな。また著者は、ピクチャレスクという英語を「絵のような」と訳す人間を罵倒するくらい語にはうるさいが、「独擅場」を「独壇場」と書き誤っている(p.232)のは、弘法も筆の誤りというものであろうか。
 とにかく著者は徹底したペダントで、自分の実力ではついていくのが大変である。まあ自分は権威主義者でもあるので、図書館にあったもう一冊の高山宏も、借りて読んでみようと思っている。

目の中の劇場―アリス狩り

目の中の劇場―アリス狩り


今日は今ひとついい読書ができなかったな。もっとポジティヴに語りたいのに。