桜井徳太郎『新編 霊魂観の系譜』

晴。
桜井徳太郎『新編 霊魂観の系譜』読了。古来の日本人の霊魂観を探るに、批判的な視点は保持しつつ、民俗学の成果を取り入れておこなった論考である。柳田国男折口信夫の探求がベースになっているのは明らかであり、それは正しい態度だろう。すなわち、人は死んでも無になるわけではなく、「タマ」が残って、生前に住んでいた土地をを見下ろすような場所から見守っている、というような*1。それが、お盆には、山の方から帰ってくるわけである。
 また日本には、「怨霊」や「御霊」という考え方がある。尋常でない死を遂げた人の魂が「怨霊」として祟るという、「祟り神」なる発想のことである。これを鎮めるためには、「怨霊」を神として祀るわけだ。有名な例としては、菅原道真がいる。この例が典型だが、最初は「怨霊」を鎮めるためだったのが、天満宮が学問の神様になったように、後に積極的な民間信仰になることもある。これは「御霊」という考え方である。
 もうひとつ、日本の古代からの霊魂観を、琉球あるいは現代の沖縄によく残っている、古くからの信仰形態から探るというアプローチもある。例えば例の「卑弥呼」などでも、沖縄の「ノロ」乃至「ユタ」や(本書には出ていないが)「聞得大君」のあり方から、その存在形態が類推できるわけだ。すなわちシャーマンである。
 折口信夫のいう「タマ」は、かなり古くから考えられていたもので、のちの時代に仏教と混淆するところもあるが、最近まで一定程度は残ってきたものである。現代でも消滅したわけではあるまい。しかし、「御霊信仰」は消滅しかかっているようにも見える。太平洋戦争の死者が祟ると言われたことはないし、水俣病の犠牲者が祟るということもない。おそらく、東日本大震災の死者も祟らないであろう。かかる事実はどう考えるべきなのか。

霊魂観の系譜 (ちくま学芸文庫)

霊魂観の系譜 (ちくま学芸文庫)

*1:地方によっては、死ぬことを「センゾになる」と称するところがある。この「センゾ」は誰もがなれるわけではなく、死後、村を見守ると思われるような人だけがなれる。