長田弘『メランコリックな怪物』 / ミシェル・フーコー『マネの絵画』

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻 ~ 第十三番 BWV858 - 第十八番 BWV863 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第九番 op.59-3 で、演奏はカザルス四重奏団(NMLCD)。本当にすばらしい曲だな。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第一番 op.49 で、演奏はカルドゥッチ弦楽四重奏団NML)。なかなかよいショスタコーヴィチだな。残りを聴くのが楽しみ。

Streichquartette 1, 2

Streichquartette 1, 2

  • アーティスト:D. Schostakowitsch
  • 出版社/メーカー: Signum Classics
  • 発売日: 2019/03/08
  • メディア: CD
フォーレノクターン第一番 op.33-1、第二番 op.33-2、第三番 op.33-3 で、ピアノはエリック・ル・サージュ(NML)。ル・サージュの演奏だからよいだろうと思っていたら、期待どおりだった。ル・サージュは現在の第一人者のひとりで実力者であるが、それがどれほど知られているかは知らない。僕は知っていた。
Nocturnes

Nocturnes

  • アーティスト:G. Faure
  • 出版社/メーカー: Alpha
  • 発売日: 2019/03/01
  • メディア: CD
 
昼寝。長いこと寝てしまった。
県図書館。

夕方、散歩。
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近所の毎年撮る桜。ようやく満開(に少し至らないが)なので、今年は遅い。
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ウチの桜。


図書館から借りてきた、長田弘『メランコリックな怪物』読了。詩集。長田弘って趣味のよい読書家は誰もが褒めるのだけれど、自分にはよくわからない。ダサいとしか言いようがない感じ。まあ、僕は文学も詩もわかりませんからね。もう少し読んでみるかな。

メランコリックな怪物

メランコリックな怪物

中野孝次の「解説」も救いようがないというか。まあ、マジメに読んでいない(読めない)から間違っているかも知れないけれど、でもねえ。


ミシェル・フーコー『マネの絵画』読了。

マネの絵画 (ちくま学芸文庫)

マネの絵画 (ちくま学芸文庫)

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの「主に向かって新しき歌をうたえ」 BWV225、「いまぞ救いと力は来れり」 BWV50 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナーモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。


昼過ぎ、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー410円。片山杜秀さんの『鬼子の歌』を読み始める。よくこの本が図書館にあったな。とりあえず第一章、三善晃についてを読んだ。といっても、本書を自分がきちんと読むことは、たぶん一生勉強してもムリだろう。レヴェルがちがいすぎる。まあそれを前提とすれば、頗るおもしろい。おもしろいというか、著者は本書をかなしい本にしたいのかも知れないが、わたしはどうしても、片山杜秀さんの過剰な文章に可笑しさを感じてしまってしかたがない。あまりにも発想が突拍子もなくて、つい笑ってしまうのだ。さて、これが本書の正しい読み方なのか、自分でも疑問に思うことである。片山さんの挙げる日本のクラシック音楽作曲家の作品にまったく通じていない自分の貧しさを責めるべきなのかも知れないのである。それにしても、片山さんのように実力がありすぎるというのは、孤独なのであろうなあとは、想像はつくのであるが。まったく大変だなあ。

鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史

鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史

 
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第七番 op.108 で、演奏はアルテミス四重奏団(NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.435, K.9, K.208 で、ピアノはアルベルト・ウロス(NML)。
D. Scarlatti: Keyboard Sonatas

D. Scarlatti: Keyboard Sonatas

 
三善晃(1933-2013)の「混声合唱管弦楽のための『詩篇』」で、指揮は小林研一郎、日本プロ合唱団連合、東京都交響楽団NML)。シマノフスキの「十二の練習曲」 op.33 で、ピアノはジュリアン・リーム(NMLCD)。■ハンス・ヴェルナー・ヘンツェのフルート・ソナチネ、「新しい民謡と羊飼いの旋律」で、指揮はクラウディオ・ルゴ、アンサンブル・ディソナンツェン(NMLCD)。

淡路島・徳島家族旅行(第三日)



最終日も好天。今日はもうさほどの予定がなく、のんびりする。まず、起きて朝食をとったあと、JR徳島駅裏の城山(徳島城跡)へ歩いてみる。城跡は古いものは石垣が残っているだけだが、ちょうど公園のような役割になっているのですね。まだ時間が早すぎて、博物館はやっていない。のでぐるりと中を一周。上の桜の写真を撮ったりして、あとはこのあたりのメイン・ストリートを歩いてホテルに帰る。特に何ということもないけれど、知らない街をのんびり歩くというのは楽しいものです。

10時頃にホテルをチェックアウトし、あとはまた鳴門へ。車で一時間くらいか。そうです、まだ「鳴門の渦潮」を見ていないのですね。昨日訪れた大塚国際美術館の前を通り、「渦の道」へ。これねえ、おもしろいのですよ。Wikipedia によると、「大鳴門橋」にはもともと鉄道用のスペースがあったのだが、鉄道をとおす可能性がなくなってしまったので、そのスペースを使って「鳴門の渦潮」の真上まで歩いていこうという、恐ろしい(?)構造物なのですね。強い高所恐怖症の人は、まず止めたほうがよいでしょう。そこから撮ったものを何枚かアップしておきますね。


これらを見終えて、あとは帰るのみ。ほぼ正午に「渦の道」を出て、行きのまったく逆の道でひたすら高速を東へ。自宅着は 17:23、三日間の総走行距離は 707.0km でした! いやあ、頑張ったなあ。めっちゃ楽しかった。旅行の途中で給油したのは初めてですよ。よく徳島まで行ったな。

淡路島・徳島家族旅行(第二日)


好天。朝、海沿いのホテルのビーチ(?)を歩く(上の写真)。青い瀬戸内海が、海なし県に住む我々にはまぶしい。

高速に入って大鳴門橋を渡り、四国・徳島県へ。さて、今日は大鳴門橋近くの「大塚国際美術館」で半日過ごすつもり。で、その大塚国際美術館であるけれども、ご存知の人も多かろうが、じつに変った美術館である。「大塚」というのは大塚製薬のそれで、まずはとにかくむちゃくちゃにデカい。日本では国立新美術館に次ぐ大きさで、民間のものとしては最大。そして、展示しているものがこれまた変っている。西洋美術の名画などを陶板に焼き付けて、まるで本物そっくりな原寸大のものが系統的に大量に(1000点以上!)展示してあるのだ。まあ複製なのだが、まずは複製だとは思えないレヴェルである。古代ギリシアから現代美術まで、特別に有名作品がセレクトされていて、何というか啞然としました。僕は思ったが、これは特に高校生あたりが見るとよいし、実際に高校生は多かったです。しかし二時間半ほどかけて一応全部観たが、マジ疲れます。肉体的にも精神的にも、我々にはちょっと限界ですね。最近鍛えている老母がいちばん元気で、おっさんは疲れました。正直言って、もうキリスト教美術は当分勘弁してくれという感じでした。しかし、わたくしは西洋の勉強のしすぎということを痛感しました。こんなに西洋を勉強してきて、何なんだとかね。

お昼すぎに、四国八十八箇所霊場の第一番札所である「霊山寺」へ。別にお遍路さんをするつもりではないが、行ってみました。特に何ということもなし。
 霊山寺のあたりで食事ができたらと思っていたのだが、まったくそういうところがない。徳島市内へいくつもりなのでそこで食べようと思っていたら、途中にチェーン店の「丸亀製麺」があったので、ああここがいいということでうどんを食った。

徳島市を一望できる眉山へ。ロープウェイで山頂へ登る。別に何ということはないけれど、眺望はすばらしい。上の写真みたいな感じです。大きな河は吉野川(河口付近)で、写真の中央あたりが JR徳島駅。桜もきれいに咲いていて、しばし景色を楽しんだのだった。

ホテルは JR徳島駅前のビジネスホテルである「ホテルサンルート徳島」。朝食のみプランがたいそうお値打ちということで決めました。
夕食は街へ出て、ホテル近くの居酒屋「食彩 遊真」で。狭い店ということで早い時間に訪れたのだが、全然他のお客さんがこなかったですね。けれどもなかなかよいお店で、家族で居酒屋で食べる飲むというのはじつに楽しいものです。変った料理を注文しながら、いろいろたわいもない話をしつつゆっくりと飲みました。満足。

淡路島・徳島家族旅行(第一日)

老母もだいぶ元気になり、いつまで家族で遊べるかわからないしということで、いつもながら小旅行してきました。今回もわたくしの運転で、岐阜から淡路島・徳島まで行こうというものであります。車ではこれまでいちばんの遠出になります。

少し寒くはあるがまずはすばらしい天気。朝八時頃に自宅を出発。いつものごとく東海北陸自動車道の岐阜・各務原IC から名神高速道路を西へひた走る。一時間に一度くらいの休憩ということで、多賀SA(滋賀県)、吹田SA(大阪府)に寄りつつ、名神終点の西宮IC(兵庫県)まで。そこから阪神高速3号神戸線は多少渋滞していた。第二神明道路を経由して神戸淡路鳴門自動車道の「明石海峡大橋」を渡る。片側三車線もあるすばらしい橋で、運転する自分はさすがにチラリとしか見えなかったが、天気もよくて渡っている明石海峡のブルーの景色がすばらしかった。これはバス等でもよいけれど、是非自家用車で渡ってみて下さい。

淡路島へ渡って最初の SA である淡路SA に、ほぼ十二時ちょうどに着く。240km を四時間というところ。ここで昼食を食べたのだが、ちょうどお昼どきだったので大変な混雑だった。まあテキトーに、玉ねぎのたくさん入ったラーメンを食べたりした。玉ねぎは淡路島の特産品なのである。展望台からは海峡や対岸がよく見えてよい眺望だった。上の写真はそこで撮ったもの。

 のんびりしていたら結構時間をとって、途中伊弉諾神宮なども予定していたのだが、結局一気に淡路島のもう一方の端まで高速でいってしまうことにする。淡路島はやはり大きな島で、高速を使っても端から端までは一時間近くかかるのだ。淡路島南IC で下りて、いろいろ道がわかりにくかったのだが、なんとか福良の「淡路人形座」へ。建物は上の写真である。これは何かというと、人形浄瑠璃のさわりを見せてくれる常設の「小屋」なのである。我々は生の人形浄瑠璃は初めてだったのだが、高々 45分くらいのものだったのだけれど、わたしにはとてもすばらしかった(語彙が貧困ですね)。そもそも、生の三味線を聴くの自体初めてで、じつに生々しいものでした。人形もそのままだと何でもないのに、黒子の人たちが操るとほとんど生きている以上で、これも感銘が大きかった。演目は「戎舞(えびすまい)」と「伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段」で、前者はえびす様がお酒を召して酔っぱらいながら願いを叶えて下さるというシンプルでめでたいもの、後者は有名ないわゆる「八百屋お七」のバリエーションのひとつで、そのクライマックスの部分のみを上演するというもの。まあ、これ以上は書きませんが、私達に大阪かどこかで人形浄瑠璃を通して見てみたいものだと思わせるに充分でした。たぶん、今回の旅行の白眉だったと思います。

まだ時間があったので、多少道に迷いながら「南あわじ市滝川記念美術館 玉青館」へ。ここは現代の南画家の直原玉青の個人美術館で、玉青の作品の他、今回は「松帆銅鐸」の本物がたまたま展示してあって、老父母は関連番組をテレビで観ていたらしく、感激していました。青玉の一種の十牛図である「禅の牧牛 うしかひ草」もまた、わたしがテキトーな解説をするととてもおもしろがっていたので、よかったですね。どこで何に出くわすかわからぬものである。

宿はいろいろの理由で、その青玉館にわりと近い「サンセットビューホテル けひの海」。食事もサービスも我々には充分で、なかなかよろしかったです。一日目の走行距離は 315.2km でした。

こともなし

晴。

あんまり脳みその調子がよくないのでうとうとしていたら、夢で会いたい人と会えたのでとってもよかった。ああ、こんな顔をしてるんだと思った。ってもちろん(夢でしか)会ったことないのだけれど(笑)。

昼過ぎ、ガソリンスタンド。
高田橋あたりの桜を見に行ってみたが、まだ半分も開花していなかった。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ポン・デ・シュガーボール+オールドファッションボール+ブレンドコーヒー344円。岩波文庫の『20世紀ラテンアメリカ短篇選』を読む。

明日から二泊の予定で小旅行にいってきます。

小野光子『武満徹 ある作曲家の肖像』 / ヴィッキー・ニール『素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない。』

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの「イエス、わが喜び」 BWV227 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナーモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はカザルス四重奏団(NML)。これがよい演奏なのかよくわからないが、多少テンポの速めのそれではあろう。余計なこねくり回しの感じられないもので、この団体によるベートーヴェンは NML で他にも聴けるようであるから、聴くのが楽しみである。さて、どうでもいいことを少し書こう。また篠田一士さんで申し訳ないが、篠田さんは「ベートーヴェン・アレルギー症」なる現象について書いておられた。ベートーヴェンと名の付くものは一切聴きたくなくなる「病」のことで、まあよくあるものであるし、自分も覚えがある。ベートーヴェンのウンザリさせられる一面をあらわしたものでもあろう。なのであるが、わたしはいまや、ベートーヴェンの音楽にいちばん謎めいたものを感じるのである。感情というものがコスミックなものと深い繋がりがあるとでもいうのか、ベートーヴェンを聴いているとそうとでもいいたくなる「謎」を感じるのだ。まあわたしの音楽の聴き方の浅さと見做してもらってもかまわない。わたしのその感覚は、ベートーヴェンが田舎者であったことと関係があるのではないかとわたしは疑っている。武満徹は東京に住んでいながら深く自然を愛したが、ベートーヴェンもまたこよなく自然を愛する人であったことはよく知られている。たぶんベートーヴェンの心の中には、故郷の田舎町ボンを流れていたライン河が、一生住み着いていたのではないかとわたしは勝手に思っている。それはともかく、わたしはバッハ、モーツァルトベートーヴェンあたりの限界点までいければ、それ以上音楽に望むことはない気がする。まあ、その程度の人間だ、わたしは。

Beethoven Revelations

Beethoven Revelations

 
ショスタコーヴィチピアノ五重奏曲 op.57 で、ピアノはエリザベート・レオンスカヤ、アルテミス四重奏団(NMLCD)。あらためてこの曲の終楽章は不思議な音楽だと思う。第一楽章から第四楽章はまあふつうにショスタコーヴィチらしい、シリアスな音楽だといってよいが、終楽章は単純な音楽ではない。わたしは「コノ曲はナニヲイミシテイルノカ」的な聴き方はあまりしないのだが、さすがにショスタコーヴィチだからね。■ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの「カリヨン、レチタティーフ、マスク」、「三つのテントス」で、ギターはマルコ・カペッリ(NMLCD)。ヘンツェはこんなにシンプルなギター曲も書いているのか。魅力的な小品たち。■ヤナーチェクの「草陰の小径にて」第二集で、ピアノはナダフ・ヘルツカ(NMLCD)。ヤナーチェクがきらいな人っているのかな。どうしたって好きになりそうな気がするのだが。この人も遠くまで続いている人だ。


珈琲工房ひぐち北一色店。歩こうかと思ったのだが、空が暗くなってきたので車で。そうして正解で、明るいながら強い雨になった。武満徹の評伝の続き。まるで我がことのように共感できる。武満は、七十年代の終わりくらいから世界の感受性の画一化に危機感を抱くようになるみたいだ。また、西洋で成功した武満に対する、一方での武満に対する偏見。現代音楽に対する偏見でもあり、人種的な偏見もないとはいえない。それにしても、西洋の前衛があれほどまでに東洋(あるいは日本)を強く意識せざるを得なかった時代があったのだ。そして、こと現代音楽に限れば、その時代の日本はとてもレヴェルが高かったのだと思う。自分は多少の疑問も感じるが、吉田秀和さんのような非常に優れた批評家も存在した。現代音楽に対する非専門家の意識も、かなり高かったように思う。日本の戦後のどこかに、たくさんの可能性を孕んだ、そして高い成果も出した、文化の一種の黄金時代があったようだ。無知な自分はよく知らないが、そんな風に思われ出したところである。

帰りに危うく車を傷つけるところだった。あぶないあぶない。若い女性の運転には気をつけないと。


図書館から借りてきた、小野光子武満徹 ある作曲家の肖像』読了。とうとう読み終えた。何とか読み終えたといってもよい。ついに武満が65歳で死んでしまって、呆然としている。これはよい本だった。晩年の武満の、世界に対する危惧を書いてもよいが、というか書きたくなるが、ここは武満らしく希望を尊重しよう。武満は九十年代の初めに人類は(悪い意味で)その最終段階にきていると語ったが、そして哲学は終ったと書いたが(死後発見)、最後まで希望を捨てることはなかった。我々はそれよりさらに希望の失われた世界に住んでいるが、それでも希望は失ってはならないものなのだろう。たとえそれがむなしくとも。

武満徹 ある作曲家の肖像

武満徹 ある作曲家の肖像

僕は筆者の年齢を知らないが、ポジティブなパワーがある。よくもここまで書き上げられたものだ。充実した読書体験だった。あとは、もう少し武満の音楽を、さらに他の現代音楽も、ぼちぼち聴いていきたい。わたしは武満の CD は多少はもっているし、多少は聴いてきたが、まったく不充分な聴き方であったと思う。わたしごときに何がわかるという気持ちも強いが、いまならもう少しマシに聴ける気がするので。

何か絶望的すぎて自分で辟易するな。あんまりクラいのはあかん。とりあえず同時代のことは括弧に入れておこう。

図書館から借りてきた、ヴィッキー・ニール『素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない。』読了。じつにひさしぶりに読んだ一般向け数学本。もう最近は自分が理系だということを忘れていたくらいだが、自分であんまりクラいことを書いているのがイヤになって読んでみた。いわゆる「双子素数予想」の証明についての一般書で、これはいまだに証明されていない数論の難問なのであるが、これがもうすぐ証明されるかも知れないというドキュメンタリーみたいな話になっている。おもしろいのは、「双子素数予想」の研究は近年急速に進んだのだが、それが数学ではじつにめずらしいことに、「共同研究」でなされたというのである。しかも、インターネットのウェブサイト上で! これは「Polymath」というプロジェクトで、数学研究の仕方に新しい方法をもたらした、画期的なものなのだ。もちろん数学研究は個人性が強いもので、「Polymath」のような手法が数学のすべてに適しているわけではない、というか適している問題は極く限られているのだが、多くの数学者たちがこれに参加して、とっても愉快だったというのだ。なにせ、そこで発表されたものがアイデアだけとか、時にはそれが誤りであったりしても、それは進歩に役立つことであり、歓迎されたということで、いや、興味深い話である。本書を読む過程で、英語圏には優秀な数学者の数学ブログが少なくないなど、興味深い事実も知った。日本語では素人の数学・物理学サイト、ブログ等は結構あるが、優秀な数学者が日本語で数学のいまを語ってくれるようなものは、わたしは知らない。また、英語圏には本書のような一般向けの理系本がたくさんあるが、日本語では優秀なサイエンス・ライターというとかつて竹内薫さんが頑張っていたくらいで、あとは翻訳本ということになる。なかなかむずかしいのですな、この問題は。まあそれはいい、本書は大学で理系の学問を学んだ方なら、ふつうに読めると思います。結構楽しみました。

素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない.

素数の未解決問題がもうすぐ解けるかもしれない.