國分功一郎&山崎亮『僕らの社会主義』 / ヴァシリー・カンディンスキー『点と線から面へ』

曇。
よく寝た。もっと早く起きられるけれど、半覚醒状態で寝ているのが好きなのである。

いま調子は悪くないのだけれど、無意識的に閉じている感じ。本質的に新しいことがない。また底を割らないといけない。

昼寝していたら(よく寝ますね)たいそうエロティックな夢を見て意味不明。で、起きて一瞬夜中かと思った。アホやな。

雷雨。

國分功一郎&山崎亮『僕らの社会主義』読了。ウィリアム・モリスの話題から始まって話が続いていくのだが、本書での「社会主義」というのは、ゆるやかなモチーフというところではあるまいか。どちらかというと、「楽しく充実して生きていくにはどうすればいいか」という話だと思う。そこを根本に、色んな話題があまり脈絡もなく話されていくという感じ。「パンよりむしろバラ」という標語も、つまりはお金だけで幸せになれるのかという意味である。何というか、著者たちはエリートで頭もよく、天使みたいな存在だと感じた。オビの写真にもあるとおり、顔なんかもいい。それに比べると、気楽に暮らしている自分だが、結局は地獄の住人だとよくわかった。彼らのようにはなれないのである。僕は特に國分さんは信頼しているのだが、本書には残念ながら殆ど共感できなかったことを記しておきたい。社会の上澄みの人たちは、本書を読んだら幸せになれると思う。いや、でも色んな人に読んでもらいたいな、本書は。皆さんが天使であることを、あるいは天使になれることを祈りたい。

僕らの社会主義 (ちくま新書 1265)

僕らの社会主義 (ちくま新書 1265)

しかし、本書のような希望に満ちた本が楽しく読めないというのは、自分の欠陥なのだろうな…。

ヴァシリー・カンディンスキー『点と線から面へ』読了。

多くの人が安全に楽しく清潔かつ快活に暮らしている現代のどのような場所でも、そこからは見えないバックヤードが必要な筈だ。そしてさらに、バックヤードで低賃金で汚れ仕事をする、特に能力もない底辺層的人々がいなくては済まない。現代における不可触賤民というのは、彼らだと思う。彼らは一般人からは invisible であり、常に忘れられている。奴隷的存在。例えば例の KKNO なども、そういう存在に近いであろう。社会主義というのは、本来かかる人々を救おうとしたイデオロギーではなかったのか。

ジェローム・フェラーリ『原理』

曇。

母がブログを移転したので、その設定などで午前中いっぱいかかる。はてなカウンター廃止に伴う移行だ。こういうのって、PC が苦手な人間にはかなり大変なのではなかろうか。

図書館から借りてきた、ジェロームフェラーリ『原理』読了。副題「ハイゼンベルクの軌跡」。辻由美訳。二〇世紀を代表する物理学者のひとりハイゼンベルクを主人公にした小説である。いわゆる「評伝」ではないし、リアリズムでもない。本書の記述にはすべて裏付けがあるそうであるが、自分には陶酔的で曖昧模糊とした、著者の思い入れしか感じられない抽象的な小説だった。いわゆる「現代文学」というやつであろう。自分は全然感心しなかった。文学通は読んでみるといいと思う。

原理――ハイゼンベルクの軌跡

原理――ハイゼンベルクの軌跡

おーすげー。なるほどという感じ。僕も「爆サイ」って知らなかったが、2ch なんてお上品だったと感じるすさまじさだな。なんか生きていく気力を失いそう。人間そのものがノイズと化している。もうマジで○○はおしまい。

夕方、カルコス。ひさしぶりにマンガのコーナーも見てみたけれど、さっぱり見当がつかないな。でも、いまはそんなに調子が悪くもない。キャッチーな題の本も色いろ立ち読みしたりした。それから、もう中沢さんの単行本はほとんど置いてないな。この人がいまどう見做されているか、象徴している。哲学の棚はここ数年で大きく変った。レジュメに過ぎないような本(仲正昌樹など)が多くなった。でも、もう嘆くことはできるだけするまいと思っている。いや、やっぱりたぶん時々はします(笑)。

古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』

晴。のち雨。
早起き。


ショパンバラード第一番 op.23 で、ピアノはエフゲニー・キーシンキーシンだったらこの程度の演奏は何万回でも可能だろう。もう弾き慣れているという感じである。まあ文句のつけようがない演奏なわけだが、この曲はシューマンみたいな人が「パーフェクト」だと言った曲ですよ。この演奏には、チョコレートの話ではないが、ビターさが足りないのだ。お子様向けなのだ。何だかやな感じなのである。


ドビュッシーの「映像」第一集で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。まったくリヒテルにはどれだけ引き出しがあるのだ。びっくりしてしまう。あんまり「印象派」っぽい演奏ではなく、ふつうドビュッシーというと響きがお団子状態になって曖昧模糊としているのだが、これはじつにクリアである。どうもどんなふうにペダルを使っているのかなと思うのだが、悲しいかな楽器のことは何もわからない。誰か解説して下さい。特に第三曲「運動」など、レントゲンにかけたような演奏だ。しかし、これもまたドビュッシーなのである。こんなのは、リヒテルにしか可能でないけれど。


ヒンデミットの「交響的変容」で、指揮はヘルベルト・ブロムシュテット。なんつー悪趣味でダサい曲だ。ブーレーズが聴いたら罵倒しそう(笑)。でも、自分にも確かにこういうところもあるかなと思う。ほんとダサいけれどね。これ、マジメに書いてんの?と言いたくなる。少なくとも、全然「現代音楽」ではないよね。


ベートーヴェン交響曲第二番 op.36 で、指揮はパーヴォ・ヤルヴィ。フレッシュ! 新鮮! ベートーヴェンの音楽がまるで生まれたてのように演奏されている。これはこんな曲だったのだなと、改めて思わされるところが多かった。それに、第一楽章の終結部など、じつにカッコいい。まあ、ベートーヴェンなのだからもっとエラそうに演ってもいいのだろうとは思うが、こういう風だっていいのだよ。

プログラミングのネタを探している。手持ちの引き出しが少ないので困る。ああ、Ruby でプログラミングがしたい! でももっとスキルがないと楽しく遊べないので、C言語とか Haskell とかお勉強中。アルゴリズム・パズルを解くってのも手だが、やっていると段々むずかしくなって手に負えなくなったり。初心者プログラマでも遊べる「遊園地」ってないですかねえ。例えば自分でプログラミング言語を実装してみるとかすごく勉強になるらしいが、なんちゃって言語でもこれはさすがにレヴェルが高すぎる。総合格闘技だもんね、言語実装って。

Haskell をお勉強していると、関数型プログラミングってハマればすごいが、めっちゃ苦手な分野もあるという印象。データの書き換えが一切できないというのは両義的だ。少なくとも、関数型プログラミング絶賛の人がいうほど、万能ではないという素人考えを抱いている。要は慣れですよといわれるが、そうなのかな。

何だかプログラミングって、やればやるほどむずかしくなってくる感じ。その言語に合ったプログラミングというのがむずかしい。例えば Ruby と C では、考え方を替えないと両方でいいコードが書けない。とにかくシンプルで読みやすいコードを書くというのが自分のとりあえずの目標なのだが、一年くらい前に書いた C のコードなんかを見ると全然よくないのだな、これが。自分でも見づらいのである。脱初心者はむずかしい。

でも、一方で、ヘタでも何でもいいからとにかくコードを書くっていうのも大事なのだよね。まず書かないと何も始まらないので。まあこれは、あらゆることに言えるが。ついでに、ヘタなコードもブログとかで晒しておくと。誰も見なくてもよいのだ。

いま自分が欲しいのは、おもしろい RubyGem を紹介してくれるサイト。おすすめ Gem を紹介する記事やサイトはあるのだが、まずは殆どが Rails 用の Gem か、あまりにもメジャーすぎる Gem だったりする。誰もが知っているわけではないけれど、使ってみるとおもしろいよ的な記事が欲しいのだが。では自分で書けばといわれそうだが、やれればやってみたいけれど、とにかく自分ではまだあまりにも実力が足りない。誰かえらい人、やらないかな。

古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』読了。本書についての感想は既に書いているので、基本的にそれとちがう読後感はない。本書は 500ページ近い分厚い文庫本で、実証研究を基本とするハードな学術書である。しかし扱っている題材が題材であるから、深く心を動かされた記述が少なくなかった。日本国憲法の「押し付け」問題はいまでもやかましい問題であるが、本書を読んでみて「押し付け」という観点を重要視しようという気分はとうに減退している。よく「押し付け」憲法を改定してこそ日本の独立は達せられるのだという主張があるが、自分は既にそれは寝言であると確信している。おそらく現行憲法の改定は、国家機能のさらなる強化とアメリカに対する従属のさらなる進行をもたらすものにちがいない。とにかく本書を読んでみたまえ、事実がどうであったかをまずは知るべきである。そして日本政府は、アメリカを始めとする諸外国同様、国家の一定期間を経過した歴史的文書はすべて公開すべきである。そして、これまでに流布されてきた紋切り型がどれくらい正しいものか、しっかりと実証すべきだ。本書は実証の過程から、松本烝治の悪質な道化ぶりや、鈴木義男の英雄的な奮闘などを掘り起こした。特に後者はあまり知られていないと思われる人物で、少なくとも自分はまったく知るところのなかった国会議員であるが、彼ひとりの存在を思っても、現行憲法がたんなる GHQ の「押し付け」であったなど、そう軽々しく言ってはいけないことである。とにかく、現行憲法をよいものとして作り上げるために努力を惜しまなかった人間は(GHQ 内も含め)少なくなかったことは明白で、一方、いまの与党にも野党にも、日本国民の平和と安寧のことを真剣に考えて憲法について発言している者がどれだけいるか、疑わしいものである。いまや、昭和も遠くなったし、昭和の戦争も遠くなった。そして我々の口は軽くなったのである。
 しかしまあ、そんな個人的な感慨はいい。自分としては、自分にはまだまだ知らないことが多すぎることを確信した。そして、知らないのはたぶん自分だけではない筈である。少しずつでも勉強していくしかあるまい。

日本国憲法の誕生 増補改訂版 (岩波現代文庫)

日本国憲法の誕生 増補改訂版 (岩波現代文庫)

又吉直樹『火花』

日曜日。曇。

昨晩は Yahoo!知恵袋の数学の問題に回答などしているうちに深夜になったのだが、そこで寝ようと思ったところで部屋のベッドの下に大きなムカデが入っていくのに気づいてしまった。直ちに退治しようとしたのだが、すぐに姿が見えなくなってしまって lost。仕方がないので、いつもはお客さんが使ったりする仏壇のある部屋で眠る羽目になる。すぐには寝付けなかったし、何だかんだで眠い。しかし困ったな。どうしましょうね。

昼から仕事。

ユークリッド空間であるということ。について - 高校数学範囲での質問です... - Yahoo!知恵袋
Yahoo!知恵袋の回答というのはこれである。リンクしておいてこういうのも何であるが、誤解されそうなので見ない方がいいです。見る方はこの世のすべての希望を捨て去ってからにして下さい(ウソ)。

図書館から借りてきた、又吉直樹『火花』読了。母から廻してもらった本。いわずと知れたベストセラーである。これは他人の言葉であるが、確かに古典的才能であろう。またこれも他人の言葉であるが、じつに「文学」らしい「文学」で、あるいは「文学」らしすぎるくらいである。スパークスの最後の漫才には泣かされそうになった。ラストも悪くない。芸人の世界は、ここまできびしいものかと思わされたくらいである。ただ、ひねくれ者としてはいっておくべきであるが、本書は「文学」としてすべて理解できると思う。わけのわからなさみたいなものはない。無能者の自分がいうのはまちがっているかもしれないが、ここにはそこそこの才能しか感じられないのだ。これは、本書がつまらなかったという意味ではなく、むしろこれはかなりいいものだと思う。ただ、著者は文学者として生まれてきたのではないとも思う。これからもおもしろい、感動的な小説が書けるかも知れないが、それだけのことかも知れない。しかし、本当は「それだけのこと」すら、殆どの者は得ることはできないわけだが。とにかく、一読の価値のある小説です。

火花

火花

ちなみに、これは本書が有名になったからたまたま小説でも読んでみました的な「お子様」にわかる小説ではない。それよりは「高級」な「文学」なので、おまちがえのないよう。別にわからなくてもいいけれどね。単なるタレント本ではありません。ってね。まる。

小説家は三作目が大事だといったのは誰だったか。蓮實重彦だったか。一作目は才能で書ける。二作目は、一作目の応用で書ける。問題は、三作目なのだと。テキトーなうろ覚えでちがったかも知れないが、とにかく三作目が重要だというのは真実だ。ちょっと古い小説家でいえば、村上龍の三作目は『コインロッカー・ベイビーズ』であり、村上春樹の三作目は『羊をめぐる冒険』である。おわかりか? 最近では、その三作目を書いた小説家を自分は知らない。たぶん、自分が知らないだけかも知れない。

ああそうだ、『パンク侍、斬られて候』は三作目に相当すると見做してよいだろうな。いまはすごい小説家になられたね。

芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行 5』『同 6』

晴。
ようやく汚い重力を破壊。基本が大事。


ブラームスの三つの間奏曲 op.117 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス


ベートーヴェン交響曲第一番 op.21 で、指揮はパーヴォ・ヤルヴィ。何というフレッシュな演奏! 細部まで神経が行き届いていると同時に、ベートーヴェンの生命力の噴出も表現し切っている、得難い演奏だ。確かにパーヴォ・ヤルヴィは巨匠ではないのかも知れないが、現代的なアプローチで最良の部類に入ると思う。僕は初期ベートーヴェンを聴くと、同時代の聴衆がいかにびっくりしたであろうと空想するのが常なのだが、この演奏を聴いていてまるで現代のロックスターのようにカッコいいと思わざるを得なかった。初期ベートーヴェンは、まったく侮れないのです。


ラフマニノフ前奏曲 op.23-1、op.32-12、op.23-3、op.23-6 で、ピアノはニコライ・ルガンスキー。なかなかよい。

昨日に引き続き、古関彰一を読む。いよいよおもしろい。それにしても、舞台のメインキャストの中で、国民のことを第一に考えていた者が何人いたものか。結局、天皇制の存続と自らの保身のことしか考えていないのだ。松本烝治にせよ宮沢俊義にせよ、呆れた人たちである。憲法研究会の鈴木安蔵など、僅かな例外であろう。とにかく、「押し付け」憲法云々を喋々する前に、この複雑で奇々怪々な笑劇の全体像をつかんでおくことこそ重要であろう。それにしても、現在の憲法論議もそうであるが、皆さん口はまわるが、じつに勝手なものでありますなあ。

芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行 5』『同 6』読了。

ヨコハマ買い出し紀行 5 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 5 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 6 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 6 (アフタヌーンKC)

松長有慶『高野山』

晴。
昧爽起床。

松長有慶『高野山』読了。本書を読んでみると、真言宗の歴史はあまり褒められたものでもないという感じがする。それがわかるほどに、本書は正直だ。高野山も様々に変転してきたが、結局いまの姿を残しているのは、場所のよさとやはり弘法大師の存在であろう。真言宗天台宗に比べまったくといってよいほど人材を輩出していないが、その激しい内部抗争の歴史を概観してみると、それも当然のことと思われる。高野山は自分も一度訪れたことがあり、期待していたほどではなかったが、それでも聖地という雰囲気は感じ取られた。弘法大師がその後の真言宗の歴史を知ったら、どのように思われることであろうか。いずれにせよ、空海自体は自分ももっと勉強したいし、これからも参照し続けられることであろう。真言宗の宝は空海ということになりそうである。

高野山 (岩波新書)

高野山 (岩波新書)


メンデルスゾーンのピアノ・トリオ第一番 op.49 で、ピアノはラン・ラン、ヴァイオリンは Andreas Röhn、チェロはゼバスティアン・クリンガー。


ブラームス交響曲第一番 op.68 で、指揮はヴィルヘルム・フルトヴェングラー。いまではこの曲はロマン派の作曲家ブラームスという発想で演奏されることが多いと思うが、これほどベートーヴェンを意識した演奏をされると、ブラームスについて考えさせられずにはいない。もちろんブラームスは、ベートーヴェンを意識するあまり自分は交響曲は書かないとまで宣言したほどだった。またこの曲の終楽章、あの有名な旋律は、ブラームスが「バカでもわかる」といったとおり、あまりにもベートーヴェンの「歓喜の歌」の主題にそっくりである。うーんといった感じ。


もう半分くらい収穫した。いまいちばん採れるときだと思う。自分では大げさだが宝石のようかと思われる。完熟してから採っているので、あまいですよ。


暑くなると出不精になるのでいけない。ツバメや色んなトンボが舞っていた。いつまでこのような世界が続くものやら。
犬を散歩させている男性にあいさつされました。あいさつって大事ですね。ついでに黒い猫も見ました。にゃおって話しかけたけれど無視されました。

古関彰一『日本国憲法の誕生』を読み始めたらおもしろくてやめられない。499ページにもなる分厚い文庫本で、バリバリの学問的研究書であるが、ぐんぐん読める。まだ半分も読んでいないのだけれど、きわめて印象的なところがあったので書いておく。いまでも日本国憲法は「押し付けられた」ものかどうか、議論は喧しいけれど、本書を読んでわかったのは、それどころではないという話である。
 1946年2月13日、GHQ から日本側に、GHQ憲法草案が渡される。日本側は松本案への回答が示されるものとばかり思っていたので、GHQ 側の発言に衝撃を受ける。そして GHQ 側は、これは押し付けではないが、天皇を救う唯一の方法であると示唆する。その会見の様子は GHQ 側の資料と日本側の資料においてほぼ一致していて、問題点はほとんどない。その日から日本側は白洲次郎などによって抵抗を試みるが、自分の印象では、完全に GHQ 側の方が上手であった。特に、松本大臣の道化ぶりは、恥ずかしさを通り越して失笑ものである。そして日本側は、ついに2月22日に閣議を開いて受け入れを決めるのであるが、本書によれば、閣僚たちの間で GHQ 案の中身を知っていたのは、衝撃(笑劇?)的なことに、幣原首相、吉田外相、松本国務相の三人だけであった可能性がきわめて高い。GHQ 側は前もって白洲に余分の12部の原文の写しを渡しているのであるが、これは参照されておらず、既に配布より一週間あまりが経っているにもかかわらず、日本語訳も一章と二章しかできていなかったというのだ。日本側は、ほぼ何の憲法論議もなさずにGHQ 案を受け入れる決定をなしたのである。
 本書はこう書いている。

 これは八月一五日につづく第二の敗戦であった。それは武力による敗戦に続く、政治理念、歴史認識の敗北であり、憲法思想の決定的敗北を意味した。

自分はここを読んで、瞑目せざるを得ない。これが日本なのだ。

なお、上の記述は本書の記述を自分が勝手に要約したものである。文中の価値判断は、引用文以外は自分のものである。詳細は本書自体に拠られたい。

こともなし

晴。起きたら湿度が低くて爽やかな朝だった。秋みたい。

音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第十六番 K.545 (クリストフ・エッシェンバッハ参照)。いわゆる「やさしいソナタ」だが、第二楽章はなかなか深い音楽であることに気づかされたし、終楽章もちょっとさみしい感じに弾かれていてよかった。■バッハ:フランス組曲第三番 BWV814 (マレイ・ペライア参照)。ペライアには今風の薄っぺらいところがまったくない。充分な余裕をもって弾かれていて、コクと深みに満ちた演奏である(ってコーヒーか何かの宣伝みたいですね)。


マーラーの「さすらう若人の歌」で、歌手はディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、指揮はパウル・クレツキ。この曲はフィッシャー=ディースカウだと立派すぎるきらいがあるのだけれど、第三曲はぴったり。まさしく灼熱のナイフに貫かれるよう。たった四曲しかないので、もっと聴いていたいくらいだった。


リヒャルト・シュトラウスオーボエ協奏曲で、オーボエは Marin Tinev、指揮はセバスチャン・テウィンケル。まったく知らないオーボエ奏者だが、じつに美しい演奏で感嘆した。曲は書かれた年代を考えると反動的という他ない保守的なものであるが、こんな美しい曲はめったにない。リヒャルト・シュトラウスというのはヘンな作曲家だったな。

昼から図書館。

夕食後に寝る。