飯田泰之『マクロ経済学の核心』 / W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』

曇。


ハイドンのピアノ・ソナタ ニ長調 Hob.XVI-24 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。これぞ晩年のリヒテル。素っ気ない演奏だが、おもしろいとしか言いようがない。ポリーニに許されていなかったのはこういう老い方だ。


ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第十五番 op.144 で、演奏はエマーソンSQ。優れた演奏。自分はまだまだだな。

昨日の台風で、ミニトマトの枝が一本折れてしまった。青い実が10個くらい付いていたやつである。折れたところをハサミで切り取る。

飯田泰之マクロ経済学の核心』読了。新書本であるが、レヴェルはかなり高そうだ。少なくとも自分はすらすら理解できるわけではない。理論的にはわりとオーソドックスなもので、いわゆる中期的なモデルを強調した構成になっているということである。いまや必須であるといわれる経済学的「教養」であるが、それを充分に身に付けるのはなかなか容易なことではない。少なくとも僕のような頭には、物理学の理解の方が遥かに容易である。物理学の理論は、基本的に少数の方程式による演繹の形を採っているから、理論は比較的見通しやすい。しかし、経済学のモデルはいちおう基本的なドグマは存在するものの、やはりかなりアド・ホックな過程を入れざるを得ない。そしてそのあたりの真偽も、物理学のようにはっきりと「実験」によって決着させられるものでもまたない。どうもこちらの方が現実に合いそうだというくらいの、そういうレヴェルでの「曖昧さ」を克服することは、いまのところ出来ていないのだ。
 しかしまあ、問題集でもやればある程度身につけられるのかな。少なくとも、使う数学はそれほど高度なものでなくてもよさそうだ(ってあまり知らないけれども)。ただ、一般人がそこまでやるべきなのかなあという感じである。そして、そこまでやってもせいぜい学部生レヴェルなのだろうな。てか、学部生レヴェルくらいはやった方がいいか。どうするかねえ。

マクロ経済学の核心 (光文社新書)

マクロ経済学の核心 (光文社新書)

しかし、こういう本を読んでいると、我々の生活のために経済学的な数字を「好転させる」べき筈なのに、経済学的な数字を「好転させる」ために我々の生活があるような気になっていくる。これは経済学がいけないというより、我々の「弱さ」を示すものであろう。それにしても、例えば仮に日本経済のためには東京の発展を最優先にすべきで、地方は衰退してもかまわないということが理論的に正当化されたら、我々田舎者はどうすればよいのだろうね。自分たちの故郷を見捨てるべきなのか。いや、これはあくまでも仮定にすぎないですよ。まあそれに近いことを主張している人たちもいるが(東浩紀さんなど)。

そういや銀座の土地価がバブル期のそれを超えたという。ベイエリアには新築マンションがどんどん建設されているこということだ。

しかしね、田舎はまあ住みやすいことは住みやすいのですよ。シロクマ先生の仰るとおり、田舎者には余計な情報がないから、いらぬ欲望を喚起されたりせず、低レヴェルで安定することが出来やすい。東京は、お金があればいいのだろうけれど、お金がない人には結構大変そうだ。それでも東京の魅力ってのは強いのだろうな。文筆家も東京人が多いものね。確かに岐阜は神保町なんてところではない。文化的不毛地に見えるかも知れない。荻原魚雷さんのように、東京は苦労しても住みたいところなのだろう。魚雷さんの出身は三重県で、齢も自分と近い。ブログを読んで共感するところが多い。

ア・ホ・だ・な。

このところよく吉本さんのことを思う。柄谷行人にいわせると、吉本隆明のまわりには、シンパや編集者たちが出入りして、いつもにぎやかそうに見えるけれど、吉本は本当はすごく孤独なんだと。こういうことをいうから、僕は柄谷行人に敬意を払うことがやめられないのである。注意して見ていると、柄谷行人のいうとおり、吉本さんは自分が孤独だということを隠していない。さみしいものだという発言を時々漏らしているのがわかる。あれだけ批判されかつ賞賛されながら、吉本隆明は孤独だった。最近は、柄谷行人も何だか見るに堪えない。僕は柄谷行人にそれほどシンパシーをもってはいないけれど、どうしてあれほどの人が、若いだけが取り柄のどうしようもなく低レヴェルな連中にあんなにバカにされねばならぬのか。ホント、最低でおしまいだという気がする。そんなことを言っていてもどうしようもないわけだが。吉本さんは自殺した江藤淳のことを反芻しておられたようだが、江藤淳の自殺は確かに奥さんの死、自分の病が引き金になったものだろうけれど、とにかく晩年の江藤淳の認識は冥かった。吉本さんは江藤淳とはちがってサブカルを肯定する道を進まれたし、それは圧倒的に正しかったが、吉本さん自身その正しさを理解しつつ、やりきれなさを感じておられたのは明らかである。まったくむずかしい時代になったものだと思う。我々はどうしても自分たちがカスであることから逃れられないのだ。

時々、地方は都会への貴重な労働力と多様性の供給源だったのだから、地方を大切にせねばならぬみたいなことをいう人がいて、上のマクロ経済学本にもちょっとだけそういう発言があるが、田舎者としてはそう言われてもあんまりうれしいわけでもないのですけれど。僕は別に供給されるために田舎で生きているわけではないぜ。

夜、仕事。

図書館から借りてきた、W・G・ゼーバルトアウステルリッツ』読了。鈴木仁子訳。これはやられた感じ。昼過ぎから読み始め、仕事のために中断した以外は、一気に読了した。ゼーバルトというのはいかにも重要っぽい文学者で、崇め奉らずにはいられないようなところがあってひねくれ者にはあまり好ましくないが、本書にはまいりました。著者が本書で何を言いたかったのかとか、そういうことに興味はないけれど、主人公のアウステルリッツ(そう、主人公の名前なのである)の異常さというか、とにかくその異様さの凄みにがっちりと捉えられてしまった。彼は、きわめて高い知的能力をもった変人である。語り手に向かって延々と憑かれたようにしゃべりつづけるのであるが、それが何のためになされるのかがまったくわからない。そして、最後彼がどうなってしまうのかもわからない。背景にナチス・ドイツの存在があるわけであるが、これは自分にはいちばんどうでもよく思われる部分である(ゼーバルトにはあるいは非難される読み方だろう)。とにかく、何が何だかさっぱりわからないのだ。そして、小説全体があたえるどこかモノクロームな雰囲気がすばらしい。これは本書に多数収録されているモノクロ写真のせいでもあるかも知れないが、自分には正直言って写真はどうでもよかった。とにかく、文体自体がモノクロームなのだ。これは、ゼーバルトのもっている「声」なのだと思うが、本書ではそれがまことによく利いている。陰鬱な文学がきらいでない方には、是非お勧めしたい。

改訳 アウステルリッツ (ゼーバルト・コレクション)

改訳 アウステルリッツ (ゼーバルト・コレクション)

そう、これまで読んだ『土星の輪』と『空襲と文学』とは比較にならないすばらしい出来だとも言っておこうか。ゼーバルトの名はこの作品だけで不朽だろう。なんて勝手に思っている。

こともなし

曇。
早起き。よく寝た。

音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第十五番 K.533 + K.494 (クリストフ・エッシェンバッハ参照)。エッシェンバッハモーツァルトはすべて計算どおりに弾かれているのだが、終楽章(K.494)はスローテンポで、さみしい音楽になっていた。この曲の本来の姿ではないとは思うけれど、悪くない。■バッハ:カンタータ第147番「心と口と行いと生活とで」第二部 (カール・リヒター参照)。■スカルラッティソナタ K.186、K.187、K.188、K.189、K.190、K.191、K.192、K.193 (スコット・ロス参照)。これを聴いていると、スカルラッティが何をやらかしているか先が知りたくて、中毒みたいにやめられなくなる。しかしスコット・ロスはすばらしい。これは現代に稀な必聴ものなのだけれど、現実には皆んな聴いているどころか、聴く人は非常に少ないであろうことが残念でたまらない。何かまちがっているとすら思えてくる。スコット・ロスはこの世があまりにも下らなさすぎてさっさとあの世にいった、まあそういうわけではないが、こういう人から先に亡くなっていくのは理不尽に思える。

疲れたので昼食まで少し眠る。ものすごく印象的な夢を見た。きっと何かの意味がある筈。どうも、いまの自分はいくらでも眠れるし、眠ることがとても大事になっている。しかし、あんまり眠ると帰ってこられなくなるような気もする。

昼から雨。台風接近。

どうでもいいのですけれど、Ruby ではクイックソートをこんな風に実装できます。

class Array
  def qsort
    return [] if empty?
    x, xs = first, last(size - 1)
    xs.select{|i| i <= x}.qsort + [x] + xs.select{|i| i > x}.qsort
  end
end

p [9, 5, 3, 4, 1, 2, 7, 4].qsort    #=>[1, 2, 3, 4, 4, 5, 7, 9]

まさしくアルゴリズムが目に見えるような実装だし、関数型プログラミングっぽくて気に入っています。ちなみに、ここでの「ソート」というのは並べ替えのことです。

素数を求めるのに「エラトステネスの篩」という方法があるのだけれど、それを C言語で実装した別ブログのエントリが、アクセス数が比較的多いわりにひどい実装で気になっていた。それを何とか訂正してひとまず安堵。でも、まだ完全なる C 初心者なのだが。

ちなみに Ruby で「エラトステネスの篩」を実装するとこんな感じ。

def eratosthenes(n)
  ar = (0..n).to_a
  2.upto(Math.sqrt(n).to_i) do |i|
    next if ar[i].zero?
    2.upto(n / i) {|j| ar[i * j] = 0}
  end
  ar[2..-1].reject {|x| x.zero?}
end

p eratosthenes(1000)

1000 以下のすべての素数を表示します。

ここで有名プログラマ(だけでは最近はないが)の小飼弾氏が色いろな言語で実装しているので、こちらと比べてみた。1,000,000 までの素数を求めている。結果は以下。
Linux Mint 18.1 @ Core i5 4210U 1.70GHz

real	0m0.841s
user	0m0.740s
sys	0m0.008s

10年間のハードウェアの進歩のせいであろう、Ruby 2.3.3 で小飼弾氏の C に遜色ない速度が出ている。小飼氏の Ruby 1.8.4 の数値にくらべれば、user 比較で 18倍の速さになっているという結果が得られた(なお、自分のマシンで小飼氏のコードを走らすと [real 0m1.785s, user 0m1.688s, sys 0m0.016s] という結果。へー、自分のコードの方が速いのか)。自分の C での実装だと

real	0m0.115s
user	0m0.064s
sys	0m0.004s

なんてもので、100万以下の素数であろうが瞬殺。

Linux Mint 18.1 を 18.2 Sonya にアップグレード。

津村記久子『これからお祈りにいきます』 / 坪内祐三『東京タワーならこう言うぜ』

晴。

音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第十四番 K.457(クリストフ・エッシェンバッハ参照)。


モーツァルトの大ミサハ短調 K.427 で、指揮はローレンス・エクィルベイ。知らない指揮者なのだが、すごい演奏でしんどかった。しかし聴き応えがあったなあ。すばらしい。


バッハのフランス組曲第三番 BWV814 で、ピアノは Evgenia Rabinovich。

昼からプールへ行ったら、機械の故障で当分お休みだって。

モーツァルトの Große Messe を聴いたせいか、下らない領域をぶちぬいた。やれやれ。
夕方までゴロゴロする。

図書館から借りてきた、津村記久子『これからお祈りにいきます』読了。「サイガサマのウィッカーマン」と「バイアブランカの地層と少女」収録。初津村記久子。前者がかなり変った小説だったので驚いたが、後者はふつうの、なかなか素敵な小説だった。しかし、小説の凄みは前者にある。高校生の少年が主人公であるが、その苛立ちが文体ごと伝わってきて、こちらまでイヤな気分にさせられるくらいなのがすごい。ふつうっぽいのにこれほど読みにくい文章もひさしぶりで、ちょっとこれは発見というくらいだった。主人公の住む町は「サイガサマ」というヘンな宗教に没頭していて、それに纏わる話という体裁になっている。とにかく少年の苛立ちぶりがいやらしく、なかなかここまでは書けるものではないと思った。しかしラストはポジティブで、それも自分には好ましい。しかし二作とも、著者は女性であるのに少年の気持ちがよくわかるのだなと思った。僕はここまで、女の子の気持ちはわかりません。うん、もっと読んでみたい小説家だな。

これからお祈りにいきます

これからお祈りにいきます

図書館から借りてきた、坪内祐三『東京タワーならこう言うぜ』読了。

東京タワーならこう言うぜ

東京タワーならこう言うぜ

早寝。

北田暁大&栗原裕一郎&後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』

日曜日。晴。
 

ハイドンのピアノ・ソナタ変ト長調 Hob.XVI-49 で、ピアノはアルフレッド・ブレンデル


ショスタコーヴィチピアノ五重奏曲ト短調 op.57 で、演奏はボロディン・トリオその他。ショスタコーヴィチの音楽は響きが陳腐すぎて聴けないみたいなことを言ったのはブーレーズであるが、ブーレーズにとっては音楽はコンセプトと和声構造のみに還元できるものだったのだろうか。音楽に音楽以外の要素を入れて聴くことはよい趣味でないというのは真実であるとは思うが、ショスタコーヴィチを聴くのに彼の置かれた状況を考えないで聴くというのもやはり不自然極まりないのではないかろうか。ショスタコーヴィチは政治的事情により、自分の書きたい音楽が書けなくなった人であり、それでも自分の圧倒的な音楽的才能をどうしようもなく、つまりは作曲するしかなかった。ショスタコーヴィチの発言として自分の音楽はすべて墓標であるというものがあるが、これは単純にそのまま受け取ることはできないにせよ、また無視してしまうことも許されない。ショスタコーヴィチ交響曲というのは非常に複雑な意図で書かれているのはまちがいない。その中には保身で書かれたものもあるであろうし、それは特に非難しても意味はないし、むしろさらに注意深く聴くべきであると思われる。一方でこの曲のような室内楽は、あまり注目をあつめるジャンルでなかったことから、ショスタコーヴィチの肉声が聞き取りやすいというべきであろう。しかし、としたところでこの曲の意図は難解である。ここには、ショスタコーヴィチが自身を嘲笑したような部分もあるのかも知れない。いずれにせよ、聴き応えのある傑作であることはまちがいない。演奏も悪くなく、じっくりと聴きました。

昼から肉屋。カルコス。日曜日の午後カルコスの駐車場にこれほど空きがあるというのは、以前はなかったことである。かつては、まちがえて行こうものなら空きが見つからないくらいだったのだが。といっても、あいかわらずカルコスにはすごい量の本だ。そういや、岩波文庫を立ち読みしている、どう見ても小学生の男子がいたが、あとから見たら何か知らないが角川ソフィア文庫の前で熱心に立ち読みをしていた。うーむ、こういう子もいるから若いひとたちは侮れない。

北田暁大栗原裕一郎後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』読了。昨日リンクしておいた田中先生の連載で絶賛されていたので早速読んでみた。まあ勉強になるところもあったが、とにかくルサンチマンに塗れたキモすぎる本であった。彼らの主張していることにはおおよそ反対ではないのだけれど、とにかく批判というよりはポジショントークがすごくて、まああまりにもそれがすごすぎておもしろいくらいだったと言えないこともない。平凡人の自分などにはキモすぎて、ヤメテクレーといいたくなるくらいだった。それにしても、本書の中で田中先生はあまり好意的な言及をされていないのに、田中先生の方は好意的すぎるくらいに本書に言及しておられたのはさすがである。ってまあ、自分も田中先生ははっきり言ってきらいではあるのだが、その学問的な誠実さはいちおうリスペクトしているわけだ。本書を一読して思うのは、論壇など崩壊したといわれながら、「ギョーカイ」の中のポジション争いのバトルがいかに熾烈かということだ。とにかく本書の内容自体には異論はあまりない。しかし、それを読むだけでは本書の本当のおもしろさ(あるいはキモさ)はわからないだろう。是非御一読をお勧めする。

しかし思うのだが、最近ではわからない主張があると、自分の頭が悪いのではなくてわからぬことを言う方が悪いということになるのだな。まあそれはある意味健全だとは思うのだけれど、本書の著者たちは(も?)皆んなえらく自信家ですなあ。結構なことで。

本書では例えば山形浩生氏は経済に強いとしてリスペクトされているが、山形氏は彼らに一見似て非常に自信家であり、かつきわめてエラそうな文章を書かれるけれど、彼らのようにルサンチマンを文章に混ぜたりするようなことは絶対にしない。その意味でとても気持ちのよい、かなりフェアな知識人である(もちろん限界もあるが)。やはりこういう人はめったにいないのだ。

ちょっと気になって「アベノミクスは間違っている」説をネットである程度検索してみたが…かなり驚いた。あるわあるわ、素人の主張でアベノミクスが間違っているという記事の多いこと、こんなにあるとは…。結構皆んなグラフで説明したりして、なかなか本格っぽいのである。もちろん主張が「素人」だからというのは、議論の真偽に何の関係もない。しかし、これは驚かなかったけれども、僕(もちろん経済学の素人)の見たかぎりでは、そういう人たちの多くが、その議論の誤り(あるいはナンセンスさ)が既に指摘されているのに、そのことをまったく理解していないのだ。どれだけ言われても、気づかない(?)のである。これではもう、反論というか、説得のしようがない。その人たちには、何か独自の経済理論があるのだ。そうとしか思えないのである。
 まあそういうことは僕には(たぶん)どうでもいいので、僕が「驚かなかった」というのは、過去に自分に少しだけ関係のあった、物理学の経験ゆえである。皆さんは御存知だろうか、物理学では「相対性理論はまちがっている」という(素人)説が、いまでも無限に湧いて出てくるのである。特殊相対性理論は高校生程度の知識で理解でき、それなのに一見常識と反するので、独自理論を打ち立てる素人が山のように存在して、実際に大学などへ言ってくる人が跡を絶たない。そういうのに対応するのは若い学者(未満)の仕事なのだが、これは自分は経験していないけれども、聞くところによると結構大変なのである。そういう人たちは、実際にテコでも動かない。まちがいを指摘しても、何の痛痒も感じない人が多いのだ。これでは「説得」のしようがないのである。で、そのうち怒りだしたりする。まあ、そういうのも人間である。しかたがないことだし、自分だってちがう分野で同じようなまちがいをしでかすかもわからない。桑原桑原。

しかし、経済学はむずかしいね。物理学とはちがって、経済学者の中にはそれこそ「奇妙な」独自理論をふりまわす専門家もいるから。そしてその真偽は、物理学ほど見分けやすくない。かなり微妙なところもある。けれども一方で、最近の経済学は進歩して、一定の実証性をもつようになってきており、決して無視してはいけない重要ポイントは共有されるようになってきた。それを無視する人は、やはりトンデモというしかないのだろうな。いや、アホがエラそうですみません。

それから、僕はまあ「アベノミクス」という呼称を用いたけれども、実際には「リフレ政策」という方が自分の意図するところである。民進党がリフレ政策を採るのなら、それならば自分はまた考えなおすだろう。別に安倍首相でなくてもいいし、というか昨日書いたとおり、僕はパヨクで反安倍だから。

ま、段々懐疑的になってきた。僕などは頭でっかちで現実をよく知らないから、黙っていた方がいいような気もする。よく現実を知る人にまかせた方がいいのかも。結局、人は自分の現実から出ることはむずかしい。多少の勉強だけはぼちぼちしておくかな。

にゃお。

ブログを移行しました

はてなダイアリーアクセス解析サービスが終了することもあり、ブログをはてなブログに移行することにしました。新しいブログの URL は
http://obelisk2.hatenablog.com/
です。別にかわらなくともいいかとも思ったのですが、それも執着かと考えたので。ダイアリーは 3062日継続して更新しました。移転先もよろしくお願い致します。
なお、ダイアリーの記事のインポートは行っていません。ここはそのままにしておこうと思います。

中央公論特別編集『吉本隆明の世界』 / 『荘子 全現代語訳(下)』

曇。
よく寝た。

はてなダイアリーからはてなブログに移行。朝からテーマの選定、設定などを行う。
 

ショパンマズルカ op.50 で、ピアノはラファウ・ブレハッチ。2005年のショパン・コンクール優勝者らしいが、ここで聴くかぎりではいくらでも代わりはいるレヴェルのピアニスト。ショパンマズルカはこんな浅い音楽ではない。


モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番 K.488 で、ピアノはティル・フェルナー、指揮はユベール・スダーン。終楽章がよかった。フェルナーはそれなりに個性のあるピアニストで、どこかあまいソーダ水みたいな感じがする。いつも好きかといわれると、よくわからないが。コメントに「第二楽章サイコー」みたいなことを書いている人がいるが、確かに美しいけれど、どこかムード音楽みたいな演奏ではないだろうか。まあ、そもそも原曲にそういうところがあるわけだが。

ブログの CSS を微調整する。

#title a {color: gainsboro;}

a.keyword {border-bottom-color: transparent;}
a.keyword:hover {border-bottom-color: lightgreen;} 
img.large  {width: 100%;}
img.half   {width:  50%;}
img.golden {width:  62%;}

#box2-inner a {color: rgba(192, 149, 51, 0.94);}

.breadcrumb span   {color: white;}
.archive-entries p {color: white;}
h2.archive-heading {color: white;}
div.archive-entry-header a {color: white;}

pre.code {font-size: 80%; padding: 10px;}

こんな感じ。さらにフッタに HTML を追加。リンクの色とリンク先をブラウザの別タブで開くための設定である。

<script type="text/javascript">
var ndlist = document.querySelectorAll("div.entry-content a"); 
for (var i = 0; i < ndlist.length; i++) {
  if (ndlist[i].innerText != "続きを読む") {
    ndlist[i].setAttribute("target", "_blank");
    ndlist[i].setAttribute("style", "color: #1dbde1;");
  }
}
</script>

なお、広告が鬱陶しいと思われる方は、ブラウザが ChromeFirefox なら拡張機能(あるいはアドオン)で Adblock Plus を入れることをお勧めします。

にゃはは。

中央公論特別編集『吉本隆明の世界』読了。以前図書館から借りてきて読んだようである。今回は購入したもの。中沢さんとの二本の長大な対談はすばらしくおもしろかった。中沢新一のフィルターをとおして、誰も見ていなかった吉本さんの側面が見えてきたのは疑いないことだと思う。本書に収録されている吉本論はほとんどが下らないもので、いかに吉本隆明が不当に批判あるいは賞賛されてきたか一目瞭然であるが、特に山口昌男の文章は興味深かった。これはもうひとつの「吉本隆明は滑稽である」なのだが、つまりは吉本が言うあれは誰が既に言っている、これもまた誰かが既に言っている、また、えらい西洋人の言っていることとはちがうという議論であり、まったく山口昌男らしいものだと思った。つまりは、山口もまた圧倒的な「秀才」だったのだ。結局、山口には吉本隆明を理解しようなんぞという気はこれっぽっちもないのである。まあそれならそれでいいのだが。山口にしてみれば、吉本など知識もなければ、自分ほど頭がいいわけでもないという存在であったろう。まあそうなのだろうな。
 本書に収録された吉本さん自身の文章では、小林秀雄が死んだときに書かれたそれが特に興味深かった。というか、小林秀雄の『本居宣長』の冒頭に出てくる、折口信夫と交わした会話が引用されているのだが(「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さようなら」)、何度も目にした小林からの引用なのに、ここを読んだ瞬間こみ上げてくるものがあった。たぶん、折口信夫小林秀雄吉本隆明の交差に感動したのだろうが、さてもセンチメンタルな男であるな、自分は。それにしても、吉本さんとの対談のなかで、中沢さんが『最後の親鸞』と共に小林秀雄の『本居宣長』を挙げて、「日本人が二十一世紀に取り組んで、出発点にすべき書物です」と言っているのには驚いた。中沢さんは小林秀雄とは相性が悪い筈だが。思えば、最近でこそ読み返していないけれど、自分の出発点は小林秀雄であった。自分が最初に買った全集は小林秀雄全集であり、あれくらい読み返した本はない。もちろん小林秀雄を読む人はいまは殆どいないのであり、自分がハマったのも田舎者だったからだろう。けれども、もちろん吉本さんも、柄谷行人小林秀雄はよく読んだのだ。すべては茫漠とした夢の中のような気がする。いまや、『観光客の哲学』の時代らしいしね。

中央公論特別編集 吉本隆明の世界

中央公論特別編集 吉本隆明の世界

荘子 全現代語訳(下)』読了。池田知久訳。岩波文庫版の訳文は既に忘れてしまったが、本書の訳はどうなのだろう。何かヘンな感じだ。何だかここで読まれる「荘子」というのは、どうもエセ悟りのバカの典型のように読まれてしまうのだが、まさかそんなことはないだろうと思われるのだけれど。それに、「荘子」の訳語として例えば「主体」なんていう言葉を使っていいものなの? 僕などの浅はかな考えだと、「荘子」なら「主体」などは幻影であると嗤うような気がするのだが。でも、こちらも未熟者の典型なので自信はない。誰かえらい人、教えて下さい。

荘子 全現代語訳(下) (講談社学術文庫)

荘子 全現代語訳(下) (講談社学術文庫)

訳者は東大教授だったようで、すごい自信なのだけれど…。

僕はパヨクで反安倍で岩波大好きな独身引きこもりニートのおっさんではあるが、田中先生はあいかわらず正しい。で、自分も内田樹にはウンザリしている。でも、やっぱりどうしようもない「リベラル」でパヨクなのだな。ちゃんちゃん。しかし、民進党には何のシンパシーもない。民進党が政権を取ることはいまのままでは 100% あり得ないし、仮に政権を取れば経済がいまとは比較にならず悪化することは目に見えている。民進党が「アベノミクス」の基本的な正しさをまったく理解していないからである(「アベノミクス」の失敗は、消費増税くらいのものである)。よく、いまの「好景気」の実感はないから「アベノミクス」はまちがっているという人がたくさんいるが、こういう人は何もわかっておられないのである。「アベノミクス」はバブル景気よもう一度みたいなものではない。実際、余裕のある人たちの生活には、さほどの実感はないものなのである。しかし、株をもっている人なら、かつてよりはだいぶ気が楽になった筈だし、かつては就職できなかった甥っ子たちの世代が、何とか就職できるようになったかも知れない。平然と何の不思議もなく存在しているあなたの会社は、景気が以前のままなら潰れていたのかも知れない。冷えきっていたバイト情報誌の内容が好転したことに、恩恵を被っている人が増えたかも知れない。劣悪な環境で派遣労働するしかなかった人たちが、少し生きやすくなったかも知れない。何よりもはっきりしているのは、経済状況の悪化によって自殺していた人たちの数が、確実に減ったことである。これは紛れもないデータの示すところだ。以上書いたことがまちがっているなら、その根拠と共に教えて頂きたいものである。

それでも、僕は反安倍政権なのだな。投票するところがなくて困る。もはや民進党は解党して、野党を再編するしかないが、それにふさわしい政治家がひとりもいない。小沢一郎にかつての力がなくなったのは、じつに残念だと思うが、仕方がない。旧民主党小沢一郎を潰すことに全力を傾注した政権だった。そもそも、旧民主党を崩壊させたあの気持ち悪い顔の野田元首相が民進党の幹事長をやっているというのは、何の冗談なのだろうか。蓮舫代表も、自分は彼女が党首になったときから神輿にすぎないと思っていたが、やはり何の政治的能力もなかったことが露呈した。最近テレビを見ていて胸がスカッとしたのは、自由党森ゆうこ議員の追求だった。じつにおそろしいドスの利きようで、さすがに小沢一郎の懐刀かと思わされたものである。おっちょこちょい風の山本太郎もなかなかやるし。しかし残念ながら、いまのままではあそこまでしかできない。

もうほとんどどうでもいいと思っていたのだが、またつい書いてしまった。皆んなあまりにも間違っているのでね。とおっさんは夢想する。有害無益な、パヨクの夢。

中村隆英『日本の経済統制』

雨。
複雑な気流の中を飛ぶ夢を見ていた。結構うまく飛べていたと思う。

モーツァルトのピアノ・ソナタ第七番 K.309 で、ピアノは内田光子

ハイドン交響曲第九十九番で、指揮はジョージ・セル。1966/2/16 Live.

ブラームスのピアノ・トリオ第二番 op.87 で、ピアノはジュリアス・カッチェン、ヴァイオリンはヨゼフ・スーク、チェロはヤーノシュ・シュタルケル

昼から県営プール。最初の15分ほどは、泳いでいるのは僕ひとりだった。こんなことはめずらしい。というか初めて。天気がよくないからかな。監視員さんは二人。おっさんがひとりでちんたら泳いでいるのは恥ずかしいようなものだが、僕は厚顔なので大丈夫。ちなみに温水期間は今日までなのだが、明日から冷水だと、これではちょっと寒くないかね。

中村隆英『日本の経済統制』読了。副題「戦時・戦後の経験と教訓」。