北田暁大&栗原裕一郎&後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』

日曜日。晴。
 

ハイドンのピアノ・ソナタ変ト長調 Hob.XVI-49 で、ピアノはアルフレッド・ブレンデル


ショスタコーヴィチピアノ五重奏曲ト短調 op.57 で、演奏はボロディン・トリオその他。ショスタコーヴィチの音楽は響きが陳腐すぎて聴けないみたいなことを言ったのはブーレーズであるが、ブーレーズにとっては音楽はコンセプトと和声構造のみに還元できるものだったのだろうか。音楽に音楽以外の要素を入れて聴くことはよい趣味でないというのは真実であるとは思うが、ショスタコーヴィチを聴くのに彼の置かれた状況を考えないで聴くというのもやはり不自然極まりないのではないかろうか。ショスタコーヴィチは政治的事情により、自分の書きたい音楽が書けなくなった人であり、それでも自分の圧倒的な音楽的才能をどうしようもなく、つまりは作曲するしかなかった。ショスタコーヴィチの発言として自分の音楽はすべて墓標であるというものがあるが、これは単純にそのまま受け取ることはできないにせよ、また無視してしまうことも許されない。ショスタコーヴィチ交響曲というのは非常に複雑な意図で書かれているのはまちがいない。その中には保身で書かれたものもあるであろうし、それは特に非難しても意味はないし、むしろさらに注意深く聴くべきであると思われる。一方でこの曲のような室内楽は、あまり注目をあつめるジャンルでなかったことから、ショスタコーヴィチの肉声が聞き取りやすいというべきであろう。しかし、としたところでこの曲の意図は難解である。ここには、ショスタコーヴィチが自身を嘲笑したような部分もあるのかも知れない。いずれにせよ、聴き応えのある傑作であることはまちがいない。演奏も悪くなく、じっくりと聴きました。

昼から肉屋。カルコス。日曜日の午後カルコスの駐車場にこれほど空きがあるというのは、以前はなかったことである。かつては、まちがえて行こうものなら空きが見つからないくらいだったのだが。といっても、あいかわらずカルコスにはすごい量の本だ。そういや、岩波文庫を立ち読みしている、どう見ても小学生の男子がいたが、あとから見たら何か知らないが角川ソフィア文庫の前で熱心に立ち読みをしていた。うーむ、こういう子もいるから若いひとたちは侮れない。

北田暁大栗原裕一郎後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』読了。昨日リンクしておいた田中先生の連載で絶賛されていたので早速読んでみた。まあ勉強になるところもあったが、とにかくルサンチマンに塗れたキモすぎる本であった。彼らの主張していることにはおおよそ反対ではないのだけれど、とにかく批判というよりはポジショントークがすごくて、まああまりにもそれがすごすぎておもしろいくらいだったと言えないこともない。平凡人の自分などにはキモすぎて、ヤメテクレーといいたくなるくらいだった。それにしても、本書の中で田中先生はあまり好意的な言及をされていないのに、田中先生の方は好意的すぎるくらいに本書に言及しておられたのはさすがである。ってまあ、自分も田中先生ははっきり言ってきらいではあるのだが、その学問的な誠実さはいちおうリスペクトしているわけだ。本書を一読して思うのは、論壇など崩壊したといわれながら、「ギョーカイ」の中のポジション争いのバトルがいかに熾烈かということだ。とにかく本書の内容自体には異論はあまりない。しかし、それを読むだけでは本書の本当のおもしろさ(あるいはキモさ)はわからないだろう。是非御一読をお勧めする。

しかし思うのだが、最近ではわからない主張があると、自分の頭が悪いのではなくてわからぬことを言う方が悪いということになるのだな。まあそれはある意味健全だとは思うのだけれど、本書の著者たちは(も?)皆んなえらく自信家ですなあ。結構なことで。

本書では例えば山形浩生氏は経済に強いとしてリスペクトされているが、山形氏は彼らに一見似て非常に自信家であり、かつきわめてエラそうな文章を書かれるけれど、彼らのようにルサンチマンを文章に混ぜたりするようなことは絶対にしない。その意味でとても気持ちのよい、かなりフェアな知識人である(もちろん限界もあるが)。やはりこういう人はめったにいないのだ。

ちょっと気になって「アベノミクスは間違っている」説をネットである程度検索してみたが…かなり驚いた。あるわあるわ、素人の主張でアベノミクスが間違っているという記事の多いこと、こんなにあるとは…。結構皆んなグラフで説明したりして、なかなか本格っぽいのである。もちろん主張が「素人」だからというのは、議論の真偽に何の関係もない。しかし、これは驚かなかったけれども、僕(もちろん経済学の素人)の見たかぎりでは、そういう人たちの多くが、その議論の誤り(あるいはナンセンスさ)が既に指摘されているのに、そのことをまったく理解していないのだ。どれだけ言われても、気づかない(?)のである。これではもう、反論というか、説得のしようがない。その人たちには、何か独自の経済理論があるのだ。そうとしか思えないのである。
 まあそういうことは僕には(たぶん)どうでもいいので、僕が「驚かなかった」というのは、過去に自分に少しだけ関係のあった、物理学の経験ゆえである。皆さんは御存知だろうか、物理学では「相対性理論はまちがっている」という(素人)説が、いまでも無限に湧いて出てくるのである。特殊相対性理論は高校生程度の知識で理解でき、それなのに一見常識と反するので、独自理論を打ち立てる素人が山のように存在して、実際に大学などへ言ってくる人が跡を絶たない。そういうのに対応するのは若い学者(未満)の仕事なのだが、これは自分は経験していないけれども、聞くところによると結構大変なのである。そういう人たちは、実際にテコでも動かない。まちがいを指摘しても、何の痛痒も感じない人が多いのだ。これでは「説得」のしようがないのである。で、そのうち怒りだしたりする。まあ、そういうのも人間である。しかたがないことだし、自分だってちがう分野で同じようなまちがいをしでかすかもわからない。桑原桑原。

しかし、経済学はむずかしいね。物理学とはちがって、経済学者の中にはそれこそ「奇妙な」独自理論をふりまわす専門家もいるから。そしてその真偽は、物理学ほど見分けやすくない。かなり微妙なところもある。けれども一方で、最近の経済学は進歩して、一定の実証性をもつようになってきており、決して無視してはいけない重要ポイントは共有されるようになってきた。それを無視する人は、やはりトンデモというしかないのだろうな。いや、アホがエラそうですみません。

それから、僕はまあ「アベノミクス」という呼称を用いたけれども、実際には「リフレ政策」という方が自分の意図するところである。民進党がリフレ政策を採るのなら、それならば自分はまた考えなおすだろう。別に安倍首相でなくてもいいし、というか昨日書いたとおり、僕はパヨクで反安倍だから。

ま、段々懐疑的になってきた。僕などは頭でっかちで現実をよく知らないから、黙っていた方がいいような気もする。よく現実を知る人にまかせた方がいいのかも。結局、人は自分の現実から出ることはむずかしい。多少の勉強だけはぼちぼちしておくかな。

にゃお。