岐阜市歴史博物館の「壬申の乱」展

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻 ~ BWV855 - BWV859 で、チェンバロはルカ・グリエルミ(NMLCD)。


新海誠監督の『天気の子』を昨晩見て、でネット検索してみたら、検索ワードに「気持ち悪い」というのが第一に出てきてちょっと驚いた。それと関係するかも知れないのだが、わたしは新海誠監督のアニメは結構見ている筈だけれど、いつも思うことがある。というのは、(自分の身近な人間が世界や宇宙の運命と直接関わっているという)いわゆる「セカイ系」な上に、ヒロインの女の子がいっつも「お人形さん」なこと。キャラクターが生きている、血が通っている感じがしない(『君の名は。』の三葉は例外としてもいいだろう)。何か、新海監督の女性観というか、恋愛観が都合よくそのまま投入されている感じで、それ自体はもちろん当り前なのだが、それにしてもひどいというか、何というか。『天気の子』も例外ではなく、「気持ち悪い」で、まずそれを思い出した。


モーツァルトクラリネット五重奏曲 K.581 で、クラリネットはニコラ・ユルゲンセン、クレンケ四重奏団(NML)。ブラームスの同編成の曲とよくカップリングされる曲で、わたしはブラームスの寂寥感に満ちた曲が好きだから、比較して「かわいそうなブラームス!」と書いた吉田秀和さんがいまだに許せない。というのは冗談だが、確かにモーツァルトのこの曲を聴くと、天上的に美しい曲であるのは認めざるを得ない。いまなら、神曲(かみきょく)とでもいうところであろうか。なお、この演奏は一流のそれとはいいがたいかも知れないが、まあそんなことはいいではないか。わたしは楽しんだ。

Mozart: Chamber Works

Mozart: Chamber Works

  • 発売日: 2021/04/23
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

わたしは金井美恵子氏の文章が好きではないのだが、以下の文章はまったくそのとおりだと思う。

認知症になった長谷川医師の日常を記録したNHKのルポルタージュ番組を去年見たが、思わず笑ってしまったのは、長谷川医師等によって考えられたケア(認知症の患者たちがデイ・ケア施設で童謡をうたったり折り紙を折ったりして、輪になって踊るお遊戯のない園児のようにおとなしく過す)を、自分はあれがいやなんだと憮然として行くことを拒否する場面だった。長谷川医師は、自分は自分の書棚に囲まれた書斎で過すのが一番落ち着けるし、ああいうことは嫌いだ、と言うのだが、もちろん、テレビで医師の姿を見ている者としては、失笑しつつ、大人は誰だって不快と思うのに決まっている、そんなことさえ自分が認知症になってみるまでわからなかったのか、という深い溜息を吐いたのだった。

いつの間にか忘れられてしまうこと②|重箱の隅から|金井 美恵子|webちくま

かかる「ケア」を強制されているのは、認知症患者に限らない。そして、不快な「ケア」を促す「職員」を困らせるのも何だから、彼ら彼女らのいうとおりにしてみせているだけの人もいる。そういう意味で、その人たちはあるいは「大人」なのだ。まったく、どちらが大人らしく、どちらが子供らしいのだろうか。
 しかしまた、すべての「職員」たちが何も考えていない、感じていないというわけでもない。みなの雰囲気の中で次第に「人間の尊厳」のようなものが失われていくのが、あるいは日本的な話なのかなと思わないでもない。それは、いけないことなのか? わたしは、健常者の医師であったときの長谷川氏が正しく、下らない「知的な」プライドで「ケア」を拒絶する認知症患者としての長谷川氏を、何となく唾棄したいような倒錯した気分に襲われないでもないのだ。ホケてお遊戯、結構ではないかともちょっと言ってみたくなる。なぜ、あなたはそれができないのか。

昼から、家族で岐阜市歴史博物館へ、「壬申の乱」展を見に行く。


岐阜市は中国の杭州市と姉妹都市らしく、その関係の庭園2枚。

岐阜公園内の池。

白い藤。

奥が歴史博物館。


壬申の乱は七世紀の大海人皇子大友皇子天皇位の相続争いで、大海人皇子が勝ち、天武天皇として即位した。現在の各務原市に本拠をもった村国男依(むらくにのおより)が大海人皇子側に立って活躍したこともあっての、岐阜市歴史博物館での展覧会なのだと思う。ただ、壬申の乱の関係遺物なんてもの自体があまりない。なので、建物などの遺物が展示の中心だった。
 岐阜公園の新緑がきれいだった。信長居館跡なども初めて見た。岐阜公園は昔からの公園なので(篠田一士氏のエッセイにも出てきたように覚えている)、あまりピクチャレスクではない。でも、大きくて立派なカメラをもったお姉さんがいたりもしたね。いい季節なのに人が少なかったのは、やはりコロナ禍のせいなのかな。