佐々木幹郎『田舎の日曜日』

曇。
昼から某所。帰りに雪が降ってきて驚く。
しかし、愛国教育とか言っている奴がああ明らかなウソばかりついていいのかね。教育勅語とやらに恥ずかしくないか。愛国で金儲け、で補助金ビジネス。まったく笑わせる。この国も終っているなあ。まあどうでもいいというか、本当はどうでもよくないけれど、もうどうでもいい。好きにしたらいい。
テレビで自衛隊のえらいさんだった大学の先生がおもしろいことを言っていた。北朝鮮が日本の米軍基地を標的にしていると発言したのを受けて、北朝鮮が日本に打ち込んだらアメリカがすぐに打ち返すから、それで北朝鮮は終わりなので、それはしないでしょうだって。まあそうかも知れないが、もしも仮に本当に打ち込んできたら、北朝鮮の前に日本が終っているのですけれど。呑気だなあ。まあこれもあまり興味はないけれど。いや、興味がなくていいのかな。でも、愚民である自分にどうせよというのだ。
どうして皆んなああエラそうなのかな。自分をエラいと思っている人がかくも世の中には遍在しているのだな。立派なものである。

図書館から借りてきた、佐々木幹郎『田舎の日曜日』読了。母から廻してもらった本。僕の好きな佐々木幹郎さんである。本書は『雨過ぎて雲破れるところ』の続編というべきか、シジンの山小屋生活の記録である。何というか、すばらしすぎて何も言えない感じ。山小屋生活と言ったって、孤独な隠者の日々とは正反対である。さまざまな人たちが集い、楽しむ、自由人たち(皆んなふつうの人たちだ)の田舎の交差路になっている。まさしく、これが生きるということではあるまいか。自分のような薄汚れた者にはまぶしすぎるが、心が洗われるような気がする。楽しいノンフィクションなのに、まるでフィクションのようにドラマティックでもあるし。本書には僕のあまり好かないある人物も出てくるし、そもそも佐々木さんの好きな中原中也は自分には理解不能なのであるが、本書を読んでいればすべて許すことができる。佐々木幹郎の散文は、彼はシジンだけれども、何か生命力の泉に触れているのを感じないではいられない。それにしても、僕はネットで佐々木幹郎について誰かが何か書いているのを殆ど見たことがないのだが、何なのだろう。たぶん自分が知らないだけなのだろうが。

田舎の日曜日――ツリーハウスという夢

田舎の日曜日――ツリーハウスという夢

シジンが引用している中では、田村隆一がさすがにすばらしいと思った。何でも文庫本の自分は(文庫本には滅多にならない慣習の)詩集はあまり持っていないので、田村隆一もそれほど多く読んではいない。まだ岩波文庫にはなっていなかったかな? 是非岩波文庫に入れるべき詩人であろう。