佐々木幹郎『アジア海道紀行』

晴。
寝坊。
音楽を聴く。■バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第二番 BWV1003 (シュロモ・ミンツ参照)。■スカルラッティソナタ K.122、K.123、K.124、K.125 (スコット・ロス参照)。スカルラッティおもしろい。クセになるという言い方があるけれど、まさにそんな風。

ベートーヴェン弦楽四重奏曲第四番 op.18-4 で、演奏はベルチャQ。何とまあすばらしいベートーヴェン。めちゃめちゃカッコよくて、これぞベートーヴェンという感じ。これが You Tube で聴けてしまうのだなあ。

シェーンベルクの三つのピアノ曲集 op.11 で、ピアノは Di Wu。Di Wu というのは知らないピアニストだが、見事なシェーンベルクの演奏だ。シェーンベルクを完全に後期ロマン派と捉えて演奏している。これはこれでひとつの見識だ。十二音技法以前のシェーンベルクって、本当にすばらしいのだよね。なんて書くとラディカルな人には怒られそうだが。

今日の GTK+ 落書き。
GTK+で落書き 4(Ruby) - Camera Obscura
図書館から借りてきた、佐々木幹郎『アジア海道紀行』読了。僕の好きな佐々木幹郎さんの紀行文集。雑誌に連載されたもののようである。こういうのは好きすぎて、感想など何も書かなくていいようなものである。まあ、何か書くか。本書の主役は「海」である。特に東シナ海東シナ海という観点から見ると、いまでは鹿児島県の寒村である坊津(ぼうのつ)がかつて遣唐使の出発港であり、日本でも有数の貿易港であったという不思議な事実が、じつは当り前のことであったというのがわかる。地図を見るとよい。坊津は東シナ海を挟んで、中国の入り口であった寧波に福岡や長崎より近いのだ。また、琉球弧に直接接続する、きわめてよいロケーションももっているのである。これはおもしろい発見であった。そして、東シナ海という観点から見れば、そこはほとんど内海であり、それも中国と韓国と日本(そして本書には出てこないが、「琉球」の存在)の内海なのであって、その海民たちには国境というものはあるいはなきにも等しかったのかも知れない。佐々木さんの視点ははっきりと意図的であり、「国家」の縛りは決して解けないにせよ、それ以外の見方もあるいは可能であることを強く示唆する。これこそが詩人の目なのだ。
 それにしても、本書出版時に比べて、日本と中国・韓国の関係は経済的には遥かに緊密になり、一方で国民感情はひどく悪化した。本書で描き出される中韓が魅力的であり、それらと歴史的にも強く関係してきたことを思うと、じつにつまらないことになっていると思う。二十一世紀になって、これほどまでナショナリズムが意図的に煽られ、結果的に猛威を振るうようになったというのは、予想外のことであった。もしかしたら世界は大きく壊れ、文明は一時的に恒久的にか、沈滞する可能性もある。まさか自分の生きているうちにそんなことになろうとは、思いもかけなかったことで、まったく何が起こるかわからないというしかない。まあ生きていく上ではポジティブに、楽観的にやっていきたいものだとは思う。何だかつまらない話になってしまった。好著に対し申し訳もない感じである。

アジア海道紀行

アジア海道紀行

ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』や中沢さんの「カイエ・ソバージュ」のシリーズを読み直してみないといけないかなあ…。しかしいつになることやら。