こともなし

晴。

つぶやき。難解だからといって中身があるとは限らない。これは問題なく正しい。しかし、この命題から、難解なものはすべて中身がない、という結論を導くことはできない。これは論理学の初歩である。
どうでもよいメモ。特殊相対性理論さえ正確に理解できていない人間が、どうしてガロア理論を理解できようか。こういうハッタリをかます人間が、他の記述において誠実であると期待することは、わたしにはむずかしい。
自分がわからないのはまだよい。当り前だが、わたしはすべてを理解することはできない。しかし、わからないものをわかったように語るのはよくない。これは自分への戒めである。

しかしわたしはポストモダンのハッタリには点が甘いから、ダブルスタンダードといわれても仕方がないな(笑)。


いまさらであるが、生の全領域を計量可能にする領域とオタクの領域が重なっていることに気づく。山極先生の、新たなジャポニズムの時代というのも、そういうことであろう。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十四番 K.387 で、演奏はシネ・ノミネ四重奏団(NML)。

サン=サーンスオーボエソナタ op.166 で、オーボエはインゴ・ゴリツキ、ピアノはリカルド・レケホ(NML)。
Saint-Saëns / Poulenc: Sonatas

Saint-Saëns / Poulenc: Sonatas

 
曇。
日没前、散歩。無意識を涵養する。





SECURITY CAMERAS IN USE。ハロー、不審人物ですよ。

佐々木幹郎さんの『猫には負ける』を読み始める。佐々木さんはわたしの大好きなシジンだ、が、詩はあんまり読んだことがない。文庫化もされていないし、図書館にもあまりないからであるが、そんなだったら買えばいいのにな。今度買おう。わたしの読んだ佐々木さんの詩は、意外なことに結構政治的だったのが印象に残っている。そんなこんなで、わたしは佐々木さんの散文を愛読してきた。本書は半ノラの愛猫にまつわる文章が収められたものである。愛猫というか、ほとんど愛人だ。これじゃあ、佐々木おじいさん、恋人はできないだろうと、思ったりもする。
 ウチも半ノラの猫をかつて飼っていた。ノラだったので、名前も「のら」だった。佐々木さんは愛猫とベッドも共にしているが、ウチののらは玄関には入ってくるけれど、上にあがってはいけないことになっていた。のらは七年ほどいて、姿を消した。たぶん、というかまずまちがいなく、どこかで死んだのだと思う。いまでも、のらが玄関のガラス戸に鼻をくっつけて、入れてくれといっている姿が思い出される。