飯田泰之『経済学講義』 / 佐々木幹郎『中原中也』

曇。


武満徹で「リタニ」(1989)。魅力的な曲だ。こういうシンプルな曲が初期のそれでないところが、武満の天才の面目躍如。


一柳慧の「交響的断章『京都』」(1989/1991)で、指揮は小泉和裕。響きが洗練されている。


ベートーヴェン弦楽四重奏曲第五番 op.18-5 で、演奏はクリーヴランドQ。

昼から米屋。肉屋。スーパー。雨になりそうな感じ。
スーパーの脇で共産党の人が演説していた。こんなさみしいところでと思う。東さんは共産党政権担当能力がないからダメといっていたけれど、まあ政権担当能力がないというのは事実だが、共産党みたいな党が必要なのもまた事実なのだ。「小池新党」も保守。「維新」も保守。パヨクは投票するところがない。共産党のダメなところも重々承知だが、結局、自分はたぶん共産党に投票すると思う。パパパパ、パヨクのわたくし。腐っているなあ。

京都の善行堂さん(「古本ソムリエ」さん)、小林秀雄も読まれるんだ。先日はどこかで「コバヒデ」といってバカにされていたし、いまの若い人は小林秀雄が大嫌いだそうで、何となく凹んでいたので何かうれしい。しかし、小林秀雄が大げさでなく血の滲むような困苦で書き継いでいった遺産は、いまでは無になろうとしている。まあ、それをザマーミロあるいは自業自得と思っている人が主流なのだろうな。小林秀雄=レヴェルの低いひと、か。

僕はこれまで、小林秀雄を読むという人にリアル(実人生)でひとりも会ったことがないです。ただのひとりも。

飯田泰之『経済学講義』読了。新書版のハンディな経済学入門書。経済学のことを何も知らない人にも強くおすすめできる、わかりやすい入門書である。数式はほぼない(足し算引き算のそれが少しだけ)にもかかわらず、かなり踏み込んだところまで解説しているし、何よりも説明がきわめて平易で読みやすいのがありがたい。自分にはわからないところもあったけれど、それは自分の能力ゆえで、著者は充分にわかりやすさに配慮している。本書は現代の経済学の主要部分をざっくりと理解するために書かれているので、よくわからなくてもとにかく最後まで読んだ方がいい。きっとためになると思う。数学を知らなくても、経済学を知らなくても大丈夫。一行しか頭に入らなくても意味があるように作ってあるので、是非おすすめしたい。若い人には特にね。

経済学講義 (ちくま新書1276)

経済学講義 (ちくま新書1276)

著者はまだ若手ながら注目されている経済学者で、こんなにわかりやすく書けるなんて、よほど頭がいいのだと思う。やっぱり若い人はすごいね。

佐々木幹郎『中原中也』読了。僕はもともと中原中也は苦手なのだが、佐々木幹郎さんの新刊とあっては読まないわけにはいかない。一読して感服というか、むしろ叩きのめされた感じである。詩の読解力が自分と二段も三段もちがうのだ。というか、自分は詩が好きだといいながら、ちっとも読めていないことがよくわかった。佐々木さんはむろん詩人であるから、深い読解は当然といえばそうなのだが、そんな常套句で済ませることもできない。特に、「詩の朗読」論というのは、いまやここまできているのだなと感じ入った。中也はよく自分の詩を朗読して友人たちに嫌がられていたそうであるが、その中也の朗読法が多いとは思えない資料から丹念に究明されている。
 僕は残念ながら佐々木さんの詩はそれほど読んでいないのであるが、その散文は現代日本語のそれの中でももっとも好ましいもののひとつである。ただ、どうして自分がそう思うかというのが、分析できない。僕は佐々木さんの散文が生命力の根源に触れているというか、まあそんなような感じがするというくらいしかいえないのである。詩人の散文というのはそもそもすばらしいものが多いが、これもまたその例のひとつであろう。本書は中原中也の評伝のスタイルを採っているが、また優れた文芸批評でもあり、このような読み応えのある文芸批評はひさしぶりに読んだ気がする。そして、自分のセンチメンタリズムであるが、中原中也が死ぬ直前に『在りし日の歌』の原稿を小林秀雄のところに置いていく場面は、どうしても感銘を受けざるを得なかった。本書はつまり、文学なのである。

中原中也――沈黙の音楽 (岩波新書)

中原中也――沈黙の音楽 (岩波新書)

それから、ちょっとした連想なのであるが、中也は自分の子供・文也の生前から子供の死を扱った詩を書き、実際にその子供は死んでしまうわけであるけれども、僕はそれを読んで、直ちにグスタフ・マーラーのことが思い出された。マーラーは自分に娘がいるうちからリュッケルトの「亡き子を偲ぶ歌」に泣きながら曲をつけていくのだが、アルマはその神経がまったく理解できなかったと書いていた筈である。結局マーラーはその娘を失ってしまうのであるが、中也にせよマーラーにせよ、それは実際にどういうことであったのか。余人には窺い知れぬところであるにちがいないわけだけれども。

もうひとつ。中也の死に関しては昔から狂死説が絶えることがなく、これまで執拗に繰り返されてきた。大岡昇平の『中原中也』では、大岡は逐一反論せざるを得なかったように記憶している。しかし、本書を読んで、最近発見された驚くべき資料により、狂死説が完全に否定されたことを知った。中也の死因は狂死ではなく、結核性脳膜炎である。そのあたりもおもしろい読み物になっている。