青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのトッカータ嬰ヘ短調 BWV910、ニ長調 BWV912 で、ピアノは近藤伸子(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番 op.73 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ、指揮はカール・ベームウィーン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。ポリーニベームの「皇帝」である。超ひさしぶりにこの録音を聴いたのだが、圧倒的な感銘を受けました。ポリーニとグールドは自分の出発点のいくらかであるが、それは決してまちがっていなかったことを確信した。それにしてもすごい突き抜けぶりである。ミケランジェロが永遠であるように、音楽を聴く人がいる限り、ポリーニの七〇年台の録音は再現芸術のひとつの頂点として参照され続けることであろう。まさに「最後のピアニスト」である。それにしても、ポリーニも自分も、いまやここから遠いところまで来てしまったなと思う。ちなみにいま聴いたものはリマスタリングがやり直されているのか、自分のもっている CD より明らかに音がよい。若い音楽家に刺激されて、ベームの気合が入りまくっているのもよくわかるようになっている。

Complete Concertos

Complete Concertos

■リストのピアノ・ソナタ ロ短調で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。1966/11 Live. この曲のリヒテルによるライブ録音はたくさん種類があって、自分はどれくらいあるのか知らないが、自分が聴いた中ではもっとも破綻の少ない演奏であると思う。ピアノ・ソナタ ロ短調の録音としては、自分はベルマンとポリーニのそれが双璧だと思っていて、リヒテルのは聴くのがちょっとこわい。リヒテルは人間にはほとんど不可能な演奏を指向しているからだ。これは、人間のほぼ限界だと思う。崩壊しない方がおかしいくらいで、この演奏ではぎりぎり持ちこたえていて、音楽を聴いているのだか何だかわからない緊張感がある。時期としては、リヒテルの全盛期であろう。この曲を楽しむ向きとしてはあまりおすすめしない。そんな演奏である。なお、余裕をもって弾かれている部分は、超一流の美しくて深い演奏である。それで終わらないのがリヒテルであろう。
2 Piano Concertos / Piano Sonata

2 Piano Concertos / Piano Sonata

ブラームスの二つのラプソディ op.79、三つの間奏曲 op.117 で、ピアノはイーヴォ・ポゴレリチNML)。世の中にはポゴレリチ教徒というものがいて、ポゴレリチの演奏を特別に熱狂的に祭り上げている。チェリビダッケ教徒みたいなものであろうか。自分は残念ながらポゴレリチ教徒ではないのだが、かといってポゴレリチがきらいどころか、彼は好きである。このブラームス集もすばらしい。ポゴレリチは確かに特異なピアニストであるが、決して曲の精神に反する演奏をするわけではない。もしそうなら、自分のような保守的な耳が受け付ける筈はないのである。これも、カッコいいブラームス。op.117 に 19分以上かけるのもすばらしい。ただ、ポゴレリチは(自分はであるが)あまり繰り返して聴く気になれないのもまた事実である。一度聴くだけなら新鮮であざやかなのであるが。 

同時代のレヴェルが低い中で自分もそのレヴェルの低さにつきあっていくことは必須であると思えるが、その中で自分のレヴェルを保っていく仕方は自分にはわからない。基本的に自分には確固たる「自分」というものがないし、もともとレヴェルも低いので、結果的に自分のレヴェルも低徊してしまう現状に陥る。実力がないとはこのことであろう。結局、レヴェルの高いものとつきあって HP を回復させるというのしかなくて、そうすると現状から離れてしまうことになる。どうしたらよいものだろうか。いまをレヴェル高く生きているひとを探さないといけないのだが、アンテナも狭いし、そんなにたくさんは見つかっていない。ホント低レヴェルな悩みなのだけれど、結構深刻である。自分のようなニセモノで、同じような問題を抱えているひとっているのではないだろうか。

結局、いまの大多数の人のように「レヴェルなんて低くていいじゃん」「ふつうでいいじゃん」っていうふうに思えないのがいけないのだよね。もちろんある意味では「ふつうでいい」のは当り前で、その意味では吉本さんなんかは極「ふつう」の人だったのでそこがすごいのだが、いま言っているのはそういう意味ではない。なんつーか、うんこくさくて無知で幼稚くさいのは生理的嫌悪感をどうしても覚えてしまうのだよなあ。自分のそういうおしっこくさいところもイヤだ。そこがおかしいのかも知れない。皆んなで白痴になりましょうというおりこうたちに賛同できない。

つーかさー、おりこうたち見ていると、「お前らってじつはクソじゃね」って自分ごときが思ってしまうところがあるのだよなあ。頭はいいのだけれど、倫理的に突き詰めたところがまったくない。頭がいいことがすべてだと思っている。自分のまわりにもよくいたよ、そういうヤツ。自分はエリートじゃないけれど、ある時点まではエリートたちの真っただ中で生きてきたから。

何だか話が逸れてった。まあどうでもいいのだが、「文学」とか「哲学」(古くさい意味での)がないのだよね。薬にしたくてもない。それは別に、一部のよくわかっていない人たちが考えるような、ポストモダニズムのせいなのではない。ポストモダニズムはもはや死んでいるものを御臨終と言っただけで、じつはそれらを延命させようという試みであった。まあ、必ずしもそれは成功しなかったのだけれど。それの成れの果てが東さん界隈なのだよな。あそこが終っているのは、いや、仮に終っているとすればそのためなのである。おりこうたち。どうでもいいか。

でも、戦線はバラバラだけれど、同じように孤独で特に知られることもなく戦っている人たちがいるのも事実だ。そういう人たちには、あらゆるちがいを超えて勇気づけられるところがある。別に戦っているそぶりも見せず、ただ困難な状況をなんとかして生きているだけでも同じことである。そういう人たちは、極少数ながら確かに存在する。まったく目立たないのだけれど。

現実の幻想性。我々の現実は、夢やまぼろしとまったく同じような幻想の構造をしていると中沢さんは言っている。というか、仏教という心の科学が明らかにした事実だ。(西洋の方から迫ったってもちろんよい。仏教ほどシンプルには言っていないが。)それを徹底的に知ること。平凡だが、修行とはまさにそれだ。


カルコス。「群像」の中沢さんの連載を立ち読みし直す(こればかりですね笑)。前読んだときは細かいことがだいぶわかっていなかった。フロイトの Das Ding は事事無碍法界そのものではないのだ。事事無碍法界は言葉で捉えることはまったくできず、それは言葉が時間的にリニアな構造をもっているからである。それに対し、事事無碍法界は過去・現在・未来が互いに相即相入しあう、時間を超えた領域だ。といって、自分にそのことがよくわかっているのでも何でもないが。レンマ的領域の探求は華厳から「大乗起信論」に至って、それから発展していないというきわめて難解なものである。中沢さんは、それを現代的な装備で大きく前進させようという驚くべき試みに取り組んでいるのだ。とてもではないが現在の自分のレヴェルを遥かに超えているのだけれど、連載が楽しみでしようがない。連載が終ったら、できるだけ早く単行本化してほしいものだと切望する。
 事事無碍法界はある意味では機械のように動作するのであるが、中沢さんはそれに関して、ガタリの「機械状無意識」の概念を評価している。これは、ラカンのさらに先にあるらしい。ガタリというのはおもしろい人だったな。しかし、これじゃ自分に事事無碍法界がわからなくても当然という気がする。ひよっこやからね。

ミスタードーナツ イオンモール各務原店。ホット・スイーツパイ りんごとカスタード+ブレンドコーヒー486円。青木やよひ先生のベートーヴェンの伝記を読む。エロイカ交響曲のあたりまで読んだが、放っておくといつまでも読んでいそうなのでとりあえずそこまでにした。ベートーヴェンの若い頃の話であるが、彼は人に恵まれていますねえ。父親がアル中だったり母親が早死したりして子供の頃は大変苦労しているのだが、まわりの人たちが彼の驚くべき才能にすぐに気がついて、厚遇してくれる。また、彼の紋切り型イメージである「努力家」というのはやはり事実で、ウィーンへ出てきてすぐに注目され、あっという間に若手 No.1 の音楽家として大成功してしまうのだが、それでも当時の何人もの大家たちに師事して真面目に課題をやっているのですね。それが実際に残っているそうで、例えばかつてモーツァルトのライバルだったとされるサリエリからも、かなり長い間教わったそうだ。声楽の扱いなど多くを得ているらしい。もちろんハイドンに師事したのは有名だが、これも在来の説どおり、あんまり細かいことは教えてくれなかったようである。ただ、ハイドンが若きベートーヴェンを最大級に評価していたのもまちがいなく、ベートーヴェンはそのうちヨーロッパ最大の音楽家になるだろう、自分はその師とされて光栄だみたいな文章が残っているくらい。基本的にはバッハとモーツァルトを咀嚼して身に付けたのだが、何といってもベートーヴェンは当時の「最先端」の音楽家で、そういう先端部分は実際の師事から多くを得ているということです。
 それから、ベートーヴェンは恋多き人だけれども、醜くてエキセントリックだったので女性からは相手にされなかったという俗説があるが、これは俗説にすぎないようである。確かに美人は好きだったようだが(自分も好きである笑)、ベートーヴェンは才能ある女性には、どちらかというと同志的な感情をもって、相手をリスペクトしつつフランクに付き合うのを好んだらしい。当時はまだ女性というと恋愛の相手か結婚の相手としか見做されてなかったので、進んだ女性たちはきっとうれしかったと思います。まあ、恋愛もあったらしいが(笑)。
 で、やはり避けては通れない、ベートーヴェンの「難聴」。最終的には完全に聞こえなくなってしまうのであるが、我々はついその事実を忘れてしまうくらい、その音楽はすばらしい。まあグレン・グールドみたいに口の悪いことに、彼の耳の聞こえていた時代の音楽こそがよいとか、ひねくれたことをいうヤツもいるが(笑)。しかし、音楽史上最大の音楽家の耳が聞こえなかったというのは、何かふしぎなものがあって、あらためて驚かされる。でも、「遺書」も書いたくらいだが、それは死後見つかったもので、まわりの人に弱音を吐くようなことはなかった。実際、その時期の音楽はどれもとても充実しています。「難聴」が彼の意識を変えたということはあったと、著者は資料を紐解きつつ述べている。そこで自分の「音楽的使命」のようなものに気づき、ここで我々の知るベートーヴェンが誕生したのであると。
 本書はじつにおもしろいが、ただもともと新書だったせいで、楽曲分析の類がないのだけは残念。紙幅が足りなかったのであろう。さて、続けて読みまする。

そうそう、おもしろいのは、ベートーヴェンは自分のライバルになりそうな同時代の音楽家たちと、ライバルというよりはすぐに友達になってしまうのですよね。当時は公開の場でピアノの腕比べみたいなのがあったのだが、ベートーヴェンに叩きのめされたヤツがそのうち友人となって出てくる(笑)。本書を読んでいると、ベートーヴェンは本当に変人だったのかと疑われる。とにかく、深い付き合いの友人が多いし、若い人にはやさしくてよく面倒をみている。そういう感じです。


青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』読了。上にも書いたが、おもしろかった。一音楽ファンとしては、ベートーヴェンの伝記として充分であると思う。曲そのものについての記述が少ないのは、多少残念であるが。ベートーヴェンの女性関係の話もまあ興味深いし、ゲーテとの交流は感動的だった。ゲーテベートーヴェンと会って直ちに魅了され、そののちも高い評価を変えることはなかったし、ベートーヴェンの方としても多少の行き違いはあったが、ゲーテの真意を悟ったのちは最大級のリスペクトをゲーテに示して渝ることがなかったのだ。
 しかし、やはりベートーヴェンは変人といえば変人だったようですね(笑)。というか、曲の精神そのものの人であったようである。ベートーヴェンに会った中で鋭い感受性をもっていた人(女性が多かった)は、彼の精神が自分たちの遥か先を行き、凡人が追いつけるものかどうか疑問に思うほどであったと。これもまた、彼の作品どおりともいえるだろう。ベートーヴェンの音楽はロマン派に継承されて爆発的な音楽語法の拡大を見たが、フマニタスの発現としては事実上ここで音楽は終ったと見做す人も少なくないし(例えば浅田彰氏)、自分もまたそれに賛同する。
 しかし自分はよく知らなかったが、アドルノは最晩年の弦楽四重奏曲たちをしてベートーヴェンの音楽の崩壊であるとし、エドワード・サイードなどはそれを受け継いでいるとのことで、それは少々意外だった。アドルノやサイードはそんなことを言っていたのか。もちろん彼らは専門的な知識と強靭な理性の持ち主であり、自分がどうの言える存在ではないのだが。自分はベートーヴェン最晩年の弦楽四重奏曲たちをめったに聴かないが、それはあまりにも深遠なものに日常でそうそう触れているわけにいかないからである。まあ、自分がまちがっていてもよいのだけれど。
 結論的に、やはりベートーヴェンは真面目で偉大なひとでした。山口昌男氏に反論できなくて残念である(笑)。

ベートーヴェンの生涯 (平凡社ライブラリー)

ベートーヴェンの生涯 (平凡社ライブラリー)

これはどういうことなのかよくわからないのだが、ベートーヴェンは耳が完全に聞こえなくなってからも、自分の目の前でなされるピアノやヴァイオリンや声楽の演奏をじっと見ていて、その演奏の良し悪しがわかったようである。的確な評価をしたり、一音でもまちがえるときちんと指摘したりしたらしい。まあ目で見てわかったのだろうが、不思議な話である。それから、自然を愛した彼は、森の中で妖精の子どもたちが跳ね回る幻覚を見て、曲にしたり(第九交響曲スケルツォ)しているらしい。どうも、その精神は古代人のように、とてつもない深みにまで達していたようだ。