こともなし

晴のち曇。
昧爽起床。夜明けが六時頃になってきた。だいぶ遅くなったな。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十七番 K.453 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はクラウディオ・アバド、ヨーロッパ室内管弦楽団NML)。■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NML)。
 
庭の花。

芙蓉。新しい木に咲いた。この植物は強く、根本まで切っても元気に復活する。葉に緑色の芋虫が湧くが。

フジバカマ(藤袴)。

まだハイビスカスが咲く。花びらがきれいに螺旋状(?)に付いている。
そういえば、なぜかまだヒバリが鳴いているのだが。
 
45分散歩。












歩きたいときに歩ける季節になって助かる。部屋でインターネットと向き合っていると煮詰まる。
 
書籍化したブログ本(7~9月分)落掌。読み始める。
 
 
昼。
県図書館。齋藤純一の『公共性』(2000)、佐々木敦の『絶体絶命文芸時評』(2020)などを借りる。亀山郁夫さんの『ロシア・アヴァンギャルド』は岩波新書で、既に BOOKOFF かどこかで購入済みな気が。
 
ミスタードーナツ バロー市橋ショップ。ミックスベリージャム+ブレンドコーヒー462円。
いま借りてきた、東浩紀監修『現代日本の批評 1975-2001』(2017)を読み始める。100ページくらい読んで、あーこういう「批評」っぽいの、好んで読んでいたときあったよね、20年くらい前かしら、と奥付を見たら、たった6年前の本なので驚いた。いまの日本(あるいはわたくし)が、いかに急速に批評的発想から遠くなってしまったかがわかる。ここで座談会(?)している、市川真人、大澤聡、福嶋亮大といった人たちが、いまどこで活躍しているのか、わたしはまったく知らないし、あまり興味もない。批評不毛時代。
 小林秀雄以来の日本の(文芸)批評は、文化の全体性を一段高いところから見渡してみせる役割があったから、「一体的文化」というものがほぼなくなった現在、批評が不毛になるのも当然だとわたしは思っている。個々にタコツボ化した文化状況を鳥瞰的に見下ろすことはもはや誰にも不可能であるし、また統一的パースペクティブなどというものもなくなった。いまは、皆んなが皆んな、それぞれてんでバラバラに(マニアックに)やっているだけだ。
 まあ、本書はなかなかおもしろい。基本的に、柄谷・蓮實が小林秀雄吉本隆明あたりをバカにしたのと同じく、後進世代が柄谷・蓮實あたりを貶したり、いろいろ自慢したり自己顕示欲を満たそうという風に見える。そして、さらにあとの世代も、同じことをするんだろうな。プロレスごっこだから、そりゃおもしろくないことはないのだ。
 なお、本書は、2018年に(わざわざ)購入して読んでいるらしい、まったく覚えていない。
 
帰りに JR岐阜駅の南あたりを車で走っているとき、フロントガラスにまともに、汚い薄茶色の鳥のうんこを大量にドバッ、ベチャってひっかけられる。ひどい。まあ、ウンがついたと思おう笑。
 

 
夜。雨。
部屋にいて本を読む気もあまりしないし、インターネット(音楽もアニメも映画も YouTube もブログもエロもその他何でもインターネットだ)と向き合うのもウンザリする。なんか、ひとりで部屋にいるとダメだな、このところ。精神が貧しく閉じている。
 
ブラタモリ」は北九州市の後編。来週は秋吉台か、高一の春休みに同級生たちと泊まりがけで行ったという思い出がある。津和野や萩も訪れたのだった。乗り換えた山陰本線益田駅(だったろう)の鄙びた感じが40年経っても忘れられない。こんな山陰の果てでも、汽車は正確に定時に来るというのに、何となく感銘を受けたのを覚えている。