保苅瑞穂『ポール・ヴァレリーの遺言』

曇。
昨晩は中沢さんを読んで寝た。
 
類型としてのモーツァルトとバッハ。モーツァルトはアンテ・フェストゥム的であり、バッハはポスト・フェストゥム的といえるか。
 
スーパー。やはりだいぶ値上がりしているかな。
 
昼から散髪。いつもやってもらっている間うとうとしているのだが、今日はうとうとしながら、ワイドショーで安倍元首相の「国葬」を中継しているのを聞かされた。
 
 
図書館から借りてきた、保苅瑞穂『ポール・ヴァレリーの遺言』読了(といっていいのか)。特に第四章「機械文明のなかの人間」、第五章「時代と戦う二つの知性」がおもしろかった。第四章はヴァレリーの現代批判、第五章はヴァレリーにおけるヴォルテールの話、とでも纏めようか。詳しく書くつもりはないけれど、確かにヴァレリーの予言したとおり、「精神」は現在において滅んだかも知れない。それは不可避のこととヴァレリーはいっているが、まさに予言は成就した。「精神」ゆえに「精神」が滅ぶ、いわば「精神」の自壊ともいえるだろう。実際、著者の唾棄するように、深くて繊細な「芸術」は滅び、野蛮で浅はかなアニメやマンガといった膨大なコンテンツが現代を覆っている。極少数の「愛好家(アマトゥール)」は、地下へ潜った。こういう言い方をしていいのかわからないが、「精神の貴族」は消滅し、粗野な大衆がすべてを濁流に押し流しめたのである。
 って、じゃあ、どうすんの?ってことだ。我々愚かな大衆は、確かにクソだ。「精神」などという、高級なものはもっていないし、繊細にして高度な感受性ももっていない。でも、「精神」は滅ぶべくして滅んだのである。もはや、絶望すら滅びたのだ。我々はどうしてよいか、まったくわからないけれども、我々だってその中で、嫌でも(無意味な生を)生きるしかないのは確かである。残念ながら、ヴァレリーや著者のような人文的教養もなく、我々は佇んでいる。ここ数日、偶然わたしは「人文学の敗北」という語を頭の中で転がしていたが、そういう言葉を使ってもいいのかも知れない。さても、我々の愚かな生に、いったいヴァレリーなどどう「役に立つ」というのか。いや、もうそういう発想が、ダメなのだといわれてしまうでもあろう。
 本書最後の二章は、わたしには甘すぎて五分くらいで速読させてもらった。

 
 
夜、雨。
NML で音楽を聴く。■シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」 op.6 で、ピアノは内田光子NML)。内田光子のこの曲の録音を聴こうとずっと思っていて、ようやく聴けた。満足。
シューマン:ダヴィッド同盟舞曲集、幻想曲

シューマン:ダヴィッド同盟舞曲集、幻想曲

  • アーティスト:内田光子
  • ユニバーサル ミュージック
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シューベルトの三つのピアノ曲 D946 で、ピアノは内田光子NML)。いきなり速めのテンポでニュアンスが乏しく、驚いた。さすが内田光子というところはあるので最後まで聴けたが、そうでなければさっさと聴き止めていただろう。まあ、この曲は自分の思い入れが強すぎるのですね。でも、いつもはあまり集中して聴いていない第三曲がおもしろかったり、内田光子らしさはある。 
早寝。