北田暁大『終わらない「失われた20年」』

休日(海の日)。曇。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番 K.488 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はテオドール・グシュルバウアー(NMLCD)。ピリスは DG 時代よりもこの Erato 時代の方が好きという人がいるが(さらに DENON 時代の方が好きという人も笑)、わかるような気がする。■オネゲル交響曲第一番で、指揮はシャルル・デュトワバイエルン放送交響楽団NML)。まさにこれぞ通俗という音楽。だからどうということはないのだけれど。デュトワはこういう曲はじつに上手い。BRSO の柔軟な弦も魅力的。

Honegger: Symphonies 1-5 / Pacific 231 / Rugby

Honegger: Symphonies 1-5 / Pacific 231 / Rugby

  • アーティスト: Arthur Honegger,Charles Dutoit,Symphonieorchester Bayerischen Rundfunks
  • 出版社/メーカー: Warner Classics
  • 発売日: 2016/08/01
  • メディア: CD
  • 購入: 2人 クリック: 9回
  • この商品を含むブログを見る
 

酷暑。昨日より暑くて、車外は 39℃ある。
カルコス。さほど買えなかった。ひさしぶりに北田暁大を読もうと思って買ってきた。あとは「群像」の中沢さんの連載を立ち読みし直し。

北田暁大『終わらない「失われた20年」』読了。大変に刺激的でした。読んでよかったと思う。自分は社会学的な世界の「切り分け」にかなりうんざりしているが、それでももう少し勉強しないといけないなと思わされた。それからあと、いつも書いているけれど、自分はもはや何の意味もない(確信犯的)「ロマン主義者」になっているなということ。まあこれは自分の生き方なのでどうするとかいっても意味はないが、とにかくもう自分のやっていることは意味がない。さらに、そういうことをいうのも意味がない。
 本書の中身もかなりおもしろかったが、この北田暁大という自分より少し若い知識人そのものもなかなか興味深いなと思った。自分はどうしようもないパヨクだが、北田氏はシニシズムアイロニーを嫌うまっとうな「左」の人っぽい。北田氏に限らず、現在の知識人研究は個人的に(テキトーに)続けていかないとなと思った。それから、日本の「左翼」はどうしてこうも(経済)「成長」がキライなのかという著者のいらだちは、まったくよくわかる。まったくもう少し経済がわかっていないと、決して野党は安倍政権に勝てない。その認識はそのとおりだと思った。
 それにしても、北田氏は東京国の人だなあ。自分は東京国のことに本当に無知であるし、あまり興味もない。まさに、滅びてよしという田舎者なのだった。

終わらない「失われた20年」 (筑摩選書)

終わらない「失われた20年」 (筑摩選書)

しかし、エビデンスとロジックで語るといういまどきの若い学者(まあ北田先生はもうそんなに若くないですが)のやり方は、基本的に正しいと思うし、頼もしい。ただ、わたくしのような蒙昧主義者の意味がまったくないとも思わない(というのは、事実というよりもそう思いたいだけであるが)。まあしかし、蒙昧主義者というより、頭が悪くて勉強していないだけかも知れず、そこらあたりは気をつけないとなと思っている。若い人で「左」に親和性のある人は、北田先生を読むのはいいのじゃないのかな。

僕がどうしようもない人間だというのは、北田先生が徹底的に批判する源一郎さんとかが好きだからですね。僕は「正義」の北田先生よりも、いいかげんでバカな源一郎さんが好きである。それに加えて、あのどうしようもなく「凡庸なオカルティスト」中沢新一の大ファンなのだ。まさに死んでしかるべし、クズの見本であるな。

でも、マルクス・ガブリエルを読むより北田先生を読む方がまったくマシじゃないかな。って何でそういう比較になるかっていや意味ないテキトーなのですけれどマルクス・ガブリエルって本当に大したことないと思いますよ。まあ、いまだに舶来品を祭り上げたいという奇習が生き残っているわけだが。いっておくけれど、自分はマルクス・ガブリエルに何の含みもないですからね。実際に読んでみれば、誰でもわかると思う。いや、じつはバカには何もわからんけれどな。それがバカだから。

また石牟礼さんを読んでいる。どんどん読みたいのだけれど、自重して少しづつ読んでいる。さて、僕はふつうに田舎に住んできて、田舎というのは全然いいものではないと知っている。田舎の人間は、イヤな人たちである。ヨソモノを嫌うだけではない。人の不幸が好きであるし、人のうわさ話が好きで、それはほぼ100%悪口だ。誰もが陰では自分も悪口を言われていることを知っていて、それでもそこにいない人間の悪口を言って、見かけは不幸の同情なんかをしてみせる。というのは、別にめずらしい話でもなくて、きだ・みのる(ってわかるかな)さんのレポートなんかは古典的だ。石牟礼さんも、そういう世界をよく知っておられるのだなとわかった。まったく、庶民というのは不思議なものである。そういう人たちはしかし、悪人というわけでもないのだ。時として義理堅く、あるいは情深くなったりするのも彼ら彼女らその人なのである。
 それに、昔(っていつのことという問題があるが)の農民の生活は大変だった。農家の嫁などは、嫁いでのち一生大変な労働の中で死ぬまで働かねばならなかった。石牟礼さんはここでも、そういう農家の嫁のつらさを散々体験されている。そもそも農家の嫁である石牟礼さんがものを書くようになったのも、自分の中にあるつらさが、(夫を含めた)誰にも相手にされなかったからであったのだ。嫁など、人間扱いされていなかったのだ。石牟礼さんの実父などは、彼女が水俣病について書くようになって、アカみたいになりおって(っていまの人にわかるだろうか)と石牟礼さんに憤りつつ死んでいったそうで、石牟礼さんはすまながっている。まわりの人たちの反応もそうで、彼女が大変に高名になったがゆえに、最近では多少は見方が変ったかもというくらいであったわけだ。
 むずかしいものであるな、人間というのは。自分ごときには、一生かかっても解きほぐせまい。

さても、仮にいまがダメであっても、かつてがよかったとは軽々しく言えない。むしろ、いつの時代であっても存在は一切苦であるというのが正しいのかも知れない。あるいは、意外とそういう認識こそが洒脱な生への捷径ではあるまいか? 逆説的ではあるが。


ああ、そうそう、ふと思い出したので書いておく。石牟礼さんは子供の頃というか、幼児の頃に、母親が田仕事をする際に畦に仰向けに寝かされていて、あたりの雰囲気を感じながら青空を見つめていたことを、さりげなくではあるが何度も書いておられる。これはこの先石牟礼さんを読み解く方に、覚えておいてもらいたいエピソードである。例えば中沢さんが、アボリジニの人々がイニシエーション(だったと思う)の最中に、岩の上にあお向けに寝転がって、青空を見つめる体験をしていたのではないかと推測しておられるのが思い出される。また、柳田国男が自伝的文章で、子供の頃昼間の青空に星のようなものを見て、それであやしい感覚になったことを書いているが、これも同等の体験のように思われる。以上、何でもないことながら。