北田暁大+解体研『社会にとって趣味とは何か』 / 國分功一郎「NHK 100分 de 名著 スピノザ『エチカ』」 / 釈宗演『禅海一瀾講話』

曇。
よく寝た。九時間くらい寝たな。

NML で音楽を聴く。■カルロ・ジェズアルドの「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」、「神よ、われを憐れみたまえ(ミゼレーレ)」で、演奏はヒリヤード・アンサンブルNMLCD)。■バッハのフルート・ソナタ ロ短調 BWV1030 で、フルートは福永吉宏、チェンバロ小林道夫NMLCD)。よい。■スカルラッティソナタ K.135、K.112、K.27、K.20 で、ピアノはクリスチャン・イーレ・ハドラン(NML)。これ悪くないな。抒情的な感じ。

Scarlatti Sonatas

Scarlatti Sonatas

 

肉屋。スーパー。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。カスタードクリーム+ブレンドコーヒー399円。『社会にとって趣味とは何か』の続きを読む。テイストだのライトノベルだのケータイ小説だのジェンダーだのオタクだのロリコンだの、基本的に自分にはどうでもよいのであるが、こうして社会学してみるとおもしろくないこともない。しかし、クラスターを表す名称が、社会学という学問ではあまりにも実体化されすぎているような違和感が拭えない。例えば「オタク」という呼称は、そんなにはっきりしたものであろうか? まあしかしそんなことを言っていては社会学できないので、仕方がないのではある。といって、例えば自分は「オタク」なのかと問うに、そんな面倒なことは考えたくない感じである。ま、自分だけか。そして「テイスト」。例えば自分は優越感に浸りたいがゆえに純文学を読み、クラシック音楽を聴くのか? いや、そう思っていなくても、案外そうなのかも知れない。しかし、上流階級に属している証拠としてそうしているのかと問われたら、笑ってしまう。わたしのどこが上流階級なのか。むしろ孤独な下流、貧乏人にすぎない。「テイスト」が階級意識に関わる問題であるとするなら、わたしの存在がその反証になっていると思う。わたしはいまのセレブの実態をそれほどよく知っているわけではないが、いまのセレブなど文化的にはどうしようもない「下等民」であることは容易に想像がつく。わたしはかつてエリート予備軍だったことがあるので、どういう下らない人間が「エリート」になるか、よく知っているつもりだ。ま、どうでもいいんだが。

「オタク」というのはもともと蔑称であり、いまでもそういうところもあるが、クラスターを表す名称は一般にもともとネガティブなコノーテーションをもっていたものが多い。近代絵画における「印象派」など、その最たるものとして有名であろう。他にも同じような例はたくさんあるにちがいない。

社会学ってのは、唯名論者ではなくてある程度実念論者でなければやっていけないところがあるな。当り前だが。だから、もともと理系の学者を目指していたわたしには違和感があるのであろう。


北田暁大+解体研『社会にとって趣味とは何か』読了。読み終えてみると、やっぱり北田さんだなと思う。本書は北田さんが中心となっている共著で、それぞれ優秀でなかなかおもしろいのだが、正直言って北田さん以外はそれほど大したことはない。それくらいには、わたしも優秀なのだろうが、北田さんくらいになると到底敵わない感じがする。北田さんは(東さんと同じで)僕より少し年下なのだが、とても優秀でしかもよく勉強されているだけでなく、やはり個性がはっきりとあって、論文以外の部分ではこれはもう文学だなと思わせる複雑さがあって好きだ。特に本書第8章の「動物たちの楽園と妄想の共同体」(なんて皮肉っぽい題名!)などは、精密な論理が怒りに近い感情でドライブされていてアグレッシブであり、野次馬としてはとてもおもしろかった。ははあ、こういう論文もありなのねと感心する。もっとも、「中二病的ヘタレ」(あるいはパヨク)である自分などは、北田さんのもっとも嫌悪するタイプの読者であろう。残念ではあるが、まあいいのだ。彼こそが現在における良質のリベラルであることに疑いはない。ヘタレながら応援しております。

 

國分功一郎NHK 100分 de 名著 スピノザ『エチカ』」読了。あるブログで『エチカ』入門として絶賛されていたので、Kindle版を購入した。確かに非常にわかりやすく、内容も濃い…と書いたが、じつはちょっと自分の能力ではむずかしかったですね。まあ、特に丁寧に読んでもいないので、きちんと読んだ人はわかるのではないかと思います。それにしてもスピノザというのは誰からも絶賛されていて、悪く言われるのを読んだことがないのだが、自分にはライプニッツ同様、よくわからない哲学者である。言っていることがわからないというよりも(いや、それはそうなのだろうが)、だから何だという気がするのだ。本書でも國分さんはスピノザを読むことは生きる助けになるというスタンスで書いておられるが、そこが全然わからない。皆さんなら、スピノザをよく理解して、豊かな人生に結びつけることができるのであろう。大したものである。

我々が「神の副詞」であるとかいわれてもね…。まあこれはスピノザの書いていることでも國分さんの読みでもないが。國分さんはスピノザから「神」を分離することが可能と思われているのだろうか。神がベッドのシーツであるとすると、我々はシーツの皺…。まあそうなのかもしれないが…。というか、そうなのだろうが…。
 それから國分さんの解説に、「真の観念を獲得していない人には、真の観念がどのようなものであるかは分からない」という文章がある。これは確かにそのとおりなのだが、結局これは「わかる人にしかわからない」引いては「バカにはわからない」ということに繋がってしまうのではないか。もう一度書くけれども、それは確かに正しい。しかし、そんなことを言ってどうなるのだ。当り前のことではないかと思う。僕は別にスピノザが「真」であるとしてもまったく構わないのだが、スピノザが本当に現代に有効であるのか、どうもわからないのだ。スピノザには「絶望が足りない」とわたしには思われてしまう。晴朗な精神? 賢者? バカでごめんなさい。

わかる人にしかわからない。確かに。わたしにはわからない。

深夜、釈宗演『禅海一瀾講話』読了。文庫本で 700ページを超える分厚い本である。さらに読み返すつもり。

禅海一瀾講話 (岩波文庫)

禅海一瀾講話 (岩波文庫)