足立巻一『やちまた(下)』

晴。
寝坊。
昼過ぎまで睡眠の後始末。寝ていると脳みそが色いろやってくれやがるので、あとが大変である。
足立巻一『やちまた(下)』読了。下巻の半分くらい読むのに数時間かかった。何ともしんどかったが、それだけのことはあった。これはとてつもない本だな。この下巻は殆ど著者の自伝であるというべきであろう。それも優れた文学になっているのだが、あまり文学という言葉も使いたくないくらいである。僕は人生というものをあまり語りたくないのであるが、本書を読んでいて人生というものを考えざるを得なかった。人の一生って何だろうという、素朴な疑問である。それぞれの人にそれぞれの一生がある。当り前の話である。そして人生に意味などないが、誰の人生にせよ尊いというのもまた真実である。それは宣長のような偉大な一生でもあるし、春庭のような天才ならねどもたゆまぬ歩みを続けた一生でもあるし、また誰の記憶にも残らない凡人の一生でもあるだろう。でなんだといわれるともういうことがない。何度も落涙させられそうになりながら読了したことを付記しておこう。センチメンタルな男である。

著者は中国戦線から生きて帰ってきたわけだから、当然人を殺した経験があるだろう。戦争というものを考えると底なしな感じがする。我々戦争体験のない人間に、戦争の本当の姿が見えるのか、自分にはわからない。戦争を考えるには冷静でなければならないようだが、とてもそんな風には自分はいかない。国家の冷徹な利害得失の考察。それがいけないというわけでなく、そうやって戦争はするものなのだろうが、そういうことを考える人間が戦場にいかないことは確実である。国家というのも謎なのだ。国家というのははたして必要なのかとも思うが、既に強固に存在する国家を消滅させることはまずは不可能である。せいぜい柄谷行人のように、「統制的理念」などという他はない。