湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変らない』

2012年晩秋_63a晴。
レンタル店。そのあたりを散歩。

古澤巌のヴァイオリンと高橋悠治のピアノで、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ全集を聴く。一言で云って、まったくロマンティックでない演奏。余韻がなく、音楽の骨組だけを聞かされているような理不尽さが拭えない。特にヴァイオリンがミスマッチ。高橋悠治のピアノは、変だがさすがに聴かせないことはない。第二番の第二、第三楽章あたりがまあまあか。なお、F.A.E.ソナタスケルツォの演奏は、意外な拾い物だった。

ブラームス ヴァイオリン ソナタ全集

ブラームス ヴァイオリン ソナタ全集

どうもこちらがおかしいのかと思って、シェリングルービンシュタインのデュオで第一番の第一楽章を聴いてみる。確かに今の自分に、ブラームスのロマンティシズムを味わうゆとりがないかなとも思ったのだが、それでもやはりこれは、古典的な、美しい演奏だ。まあ、日本人がこんな演奏を目指す必要はないし、第一無理だが、とにかく、再現部の第二主題が出てくるところの、ルービンシュタインのピアノを聞いて頂きたい。なんとも、胸が狂おしくなってくるようなロマンティシズムではないか。さすがである。
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全集

ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全集


図書館から借りてきてもらった、湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変らない』読了。小さい本だが、とても面白かったし、いろいろ考えさせられた。最近は、政治でともすればヒーローが求められている。確かに、既存のシステム自体がダメになっているという認識で、ばっさばっさと「既得権益」を斬るヒーローは、わかりやすい。しかし、民主主義というのは、粘り強く落とし所を探っていく、面倒で時間の掛かるものではないのか、と云うのだ。というのは(以下、自分なりのパラフレーズになるが)、日本には今一億数千人の日本人がいるけれども、それらは皆ちがっている。誰も、ある観点から見れば、すべてマイノリティだ。だから、誰にでも一律に当てはまる解決策など、ないのである。いや、たとえ自分はマジョリティだ、マイノリティに施策を割くなどけしからん、という人もいるかも知れないが、そういう人だって、いつ少数派にならぬとも云えないではないか。そして、なんだかんだ云っても、民主主義以上の政治形態は、これまで発明されていないのである。著者はこう述べている。「…私も、これまでの経験から、利用者の多い少ないだけで切り捨てたり、声の小さいものや少数派を無視していくと社会全体が弱体化すると思っています。…これからの日本社会は、より競争を激化する方向では個人も社会も元気にならない、かえってより停滞し、閉塞感も深まってしまうだろうという考えです。必要なことは、競争環境をより過酷にすることではなく、人と人をつなぎ、その関係を結び直す工夫と仕掛けを蓄積することだと思っています。」(p.79)
 そしてヒーローが斬った「既得権益」とは、もしかしたら「自分」であるかも知れないのだ。また、別の誰かを斬った筈なのに、回りまわって「自分」にとばっちりが及んでこないと、一体誰に言えよう。繰り返すが、万人に都合がいいような解決策など、あり得ない。そこはじっくり詰めた上での、選択の問題にならざるを得ないのだ。
 それにしても、具体な話になるが、中高年男性の「弱者化」についての記述は、未婚の中年男性である自分には、本当に身につまされた。自分も、今の仕事ができなくなれば、一気に弱者化する可能性は高い。大震災でも明らかになったことだが、中高年男性のコミュニケーション能力の低さは、自分にはよくわかる話だ。これは、自分でも、これからも考えておかねばならない問題であるのは、はっきりした。
ヒーローを待っていても世界は変わらない

ヒーローを待っていても世界は変わらない