カペルの弾く、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番、その他雑感

ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番が聴きたくなる。普段はリヒテル盤を聴くことが多いので、ちがった選択をと思い、ウィリアム・カペルの演奏を聴いてみる。結論から云うと、魔術的な瞬間はないではないが、デリカシーの乏しい演奏。マッチョと云うか。後の方が段々よくなっていて、第一楽章は聴くのが苦痛だった。何よりも、ロビン・フッド・デル・オーケストラとかいうオケが下手すぎる。指揮のウィリアム・スタインバーグというのも凡庸で、これならピアノの方がまだ数段マシ。まあ最後は盛り上がって終ってよかったものの、全体的に雑で、とても後世に残すべき演奏とは思えないのだが。最近の若手でも、もっといい演奏はたくさんあると思う(例えば辻井伸行君とか)。好きな人は御免なさい。(AM1:07)

20世紀の偉大なるピアニストたち?ウィリアム・カペル

20世紀の偉大なるピアニストたち?ウィリアム・カペル

それにつけても思うのだが、昔の演奏家と今の演奏家のどちらがいいか、という疑問があるとすれば、どうだろう。昔の演奏家には個性のある人が多い、という通説。これはそうだと思う。フルトヴェングラーなどは、二度と出ない天才だろう。ホロヴィッツなどもそう。サンソン・フランソワなんかもそうだな。グールドが昔の演奏家かどうかは微妙だが、この人の個性を認めない人はいないだろう。
 では、昔の演奏家は個性があるが、技術は下手、という通説。これもある程度そうだと思う。これは誰かとは言わないでおこう。では、今の演奏家は、技術はあるが個性がない、という通説。自分は、これはちょっと疑問と言いたい部分がある。確かに強烈な個性は少なくなったし、「巨匠」というのもいなくなったが、大雑把に見て技術は格段によくなっているし、「音楽的」といいたい演奏家が増えたと思う。では小粒か。これはむずかしい。
 概して、自分は確かに昔の演奏家を聴くことが多いような気もするが、最近の演奏家は結構いいと思っている。ただ、かつての巨匠のディスクが安すぎるのだ。つい買ってしまうので、若手が疎かになる。とすると、いかんねえ。(AM1:43)

高橋源一郎『「悪」と戦う』/吉本隆明『マス・イメージ論』再読

曇。
うどん「恵那」にて昼食。恵那ころ蕎麦。

高橋源一郎『「悪」と戦う』読了。文庫解説の中森明夫ではないが、悲しすぎるだろう。著者がぶち当たっているのは、自分がイライラしているところと同じものかも知れないが、その対応が才能の差だな。三歳児が世界を救うために戦う(って不思議な戦いなのだが)なんて、悲しすぎる。パパもママも弟も、いなくなってしまう。「悪」は、超絶美少女のミアちゃんだ。ミアちゃんは、世界の「正義」と「偽善」の象徴なのだろうか。我々はあまりに「正義」の言説の中に生き過ぎて、窒息しそうになっている。どうして三歳児のランちゃんが、戦わなければならないのか。今や「正義」と「偽善」に染まっていないのは、三歳児しかいないのか。しかし、最後の並行宇宙論はいったい何なのだろう。著者は何にたどり着いたのか。それともそれは、ただの冗談?
 併録の「魔法学園のリリコ」は、続きが読みたいです。これでオシマイとは、先が気になり過ぎる。

吉本隆明『マス・イメージ論』を読み返す。昔読んだときは、本当に何もわかっていなかったのだと痛感した。八〇年代になって、我々の意識世界に何かが侵入してきた。その様子を、著者は正確に描き出している。自分にはまだわからない部分も多く、そのうちまた再読するような気がする。
マス・イメージ論 (福武文庫)

マス・イメージ論 (福武文庫)


最近の「極東ブログ」には凄みがある。自分は読んでいないが、本をお書きになったせいだろうか。以前は変にひねくれた感じがあって、時々読んではいたものの好きになれなかったのだが、今は好き嫌いを越えて読ませるところがある。こうなると、元々頭のいい方なので、格段に印象が違ってきた。シリアスな文章も軽いのもいい。