こともなし

日曜日。晴。


ラヴェルの「クープランの墓」で、ピアノはヴラド・ペルルミュテール。これはじつにすばらしいラヴェル。ペルルミュテールはラヴェル弾きとして名高く、ラヴェルに直接指示を受けていたということでまさしくラヴェルピアノ曲の権威であるが、これを聴くと宜なるかなと思わされる。いや、それらすべてを忘れて虚心坦懐に聴いても、最高級のラヴェルであることは疑いない。ラヴェル以外のペルルミュテールってほとんど知らないが、とにかく優れたピアニストだったことがこれからわかる。歯切れがよくて清潔、しかしコクのようなものもちゃんとある。技術も確か。


ヒンデミットのチェロ・ソナタ(1948)で、チェロはナターリヤ・グートマン、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ


シューマンのピアノ・トリオ第一番 op.63 で、ヴァイオリンはアレクサンダー・シュナイダー、チェロはパブロ・カザルス、ピアノはミェチスワフ・ホルショフスキ。へー、こんな録音があったのか。名手たちだな。いいなこれ。

昼から酒屋。カルコス。山下達郎の「サンデーソングブック」の特集ということで、初めて「BRUTUS」を買った。って僕、山下達郎で音楽に目覚めたくらいなのに、「サンデーソングブック」を聴いていないのですよね。モグリだ! でもこの雑誌については新聞広告で見ていて、さらにいつも巡回しているブログでも紹介されていたので、迷わず買った。いま、お茶しながらパラパラ見ています。本当に自分はポピュラー音楽を知らないな。一気に読んではもったいないので、ネットなどで調べながらゆっくりと読みたい。

BRUTUS(ブルータス) 2018年2/15号No.863[山下達郎のBrutus Songbook]

BRUTUS(ブルータス) 2018年2/15号No.863[山下達郎のBrutus Songbook]

 
一家が近所まできたのでちょっと寄っていった。しかし甥っ子たち、スマホでゲームばかりですな。何か聞かれても上の空という感じ。


僕と山下達郎の共通点というのはまあほとんどないわけだが(笑)、唯一あると思われるのは、ヘッドホンで音楽を聴くということ。達郎さんは自分の音楽はヘッドホンで聴くと最高に聴こえるように作っているみたいなことを昔から仰っている。僕は音楽を聴き始めたのはとにかく達郎さんからだから、直接影響を受けたわけではないけれど、自然とそうなっていったかのようである。あと、「ウォークマン」世代だし。いまの人に「ウォークマン」って言ってもわからないかも知れないな。 もう iPod すら時代遅れなのだから。おお、我が SONY! である。という感じで、クラシックも何もかも、一応オーディオ機器もあるのだが、いまだにヘッドホンなのである。だから、それでは音楽などわかるまいといわれたら肯うしかありませんね。ただ、ある程度はいいヘッドホンを使っているつもりですが。学生の頃はオーディオショップで、店員が「これはプロが使うやつですよ」みたいなのを購入して使っていた。いまは BOSEQuietComfort 15 というノイズキャンセリング・ヘッドホンを使っている。まあそんなにすごいものでもないですが。

あと、達郎さんというと、教授(もちろん坂本龍一氏)が仰っていたことに、彼はクラシックの現代音楽の作曲家になっても、ユニークな存在になったろうというのがある。この言葉はよく思い出します。僕は音楽理論をきちんと勉強していないのでダメなのだが、達郎さんがポピュラー音楽の枠組みの中でいろいろユニークな試みをたくさんしていることは承知している。クラシックの作曲家が和声システムの崩壊時にやったことと、実質的に同じような試みをしているということなのですね。ただ、達郎さんはいわゆるアルチザン(職人)的なタイプで、自在にさらりとカッコよくやっているという点がユニーク。まあこういう話は、ボロが出ないうちにやめておきます(笑)。もう出てるって(爆)

自分が達郎さんを聴き始めたのはたぶん小学校5年生くらいのときで、友達のお兄さんがたまたま聴いていたのを、偶然聴くようになったのです。70年代の最後ですね。「CIRCUS TOWN」「SPACY」「GO AHEAD!」「MOONGLOW」の四枚のアルバムが決定的でした。小学生から中学生というときで、そんな齢で何を聴いていたのかといわれるかも知れませんが、スポンジが水を吸うように吸収したのだと思います。いまこれらを聴いても当時のように感銘を受けるので、人間など本当に変わらないものだと呆れます。僕の山下達郎は、結局はこの四枚に尽きるのです。学生のときも、どれくらい聴いたかわかりません。それこそウォークマンで、ローカル線を乗り鉄しながら聴いていたりしたのを思い出します。既にクラシック音楽にもどっぷり浸かっていたのですけれど。

CIRCUS TOWN (サーカス・タウン)

CIRCUS TOWN (サーカス・タウン)

SPACY (スペイシー)

SPACY (スペイシー)

GO AHEAD! (ゴー・アヘッド! )

GO AHEAD! (ゴー・アヘッド! )

MOONGLOW (ムーングロウ)

MOONGLOW (ムーングロウ)

沖縄・名護市長選挙は現職の稲嶺進氏が敗北した。特に何をしたわけでもないけれど、パヨクとして自分も敗北感を覚える。これは名護市民にとって経済を取るという苦渋の決断だったのか、それともポジティブに辺野古への基地移設に賛成したのか、自分にはわからない。田中秀臣先生は次のようにツイートしておられる。


つまり、仮に辺野古への基地移設に反対であっても、生活や経済の方が大事なのだと。確かに、基地移設に反対して飢えたらどうだとは、我々はいえない。生活が大切なことは当たり前のことである。もっとも、僕は田中先生は、たぶん名護市民の選択は苦渋のものである、という可能性を否定されているように邪推する。まあしかしこれは、根拠のない誹謗中傷の類かも知れないな。それから、田中先生の別のツイートにあったが、特に当選した渡具知氏へ投票したのは、圧倒的に若い人たちだったという。これはなるほどという感じだ。未来のある若い人たちが、基地問題よりも経済を重視するのはある意味当然かも知れない。ただそれは、こう言うのは負け犬の遠吠えのように響くが、若い人たちが基地を受け入れているということでは必ずしもないと思う。むしろ、屈服したのだ。金というよりは、本土の意志に。いや、こういう言い方は名護の若い人たちに失礼なのかも知れないけれども。俺達は主体的に基地が欲しいんだ、あるいは基地問題なんてどうでもいいのだ、というのが沖縄の若い人たちの真意なら、パヨクは潔く自らの時代遅れぶりを認めよう。

それにしても汚い選挙だった。毎日ツイッターで見ていて正視に耐えない感じだった。ありとあらゆることがなされた。え、きれいな選挙なんてあるの?といわれれば、まあないのかも知れんな。


このツイートに対し、「民意は示された」というリプライも多くある。さても、自分にはよくわからない。これからも沖縄を注視していくしかない。いずれにせよ、自分には敗北感がある。ちっぽけな一市民に過ぎないが。

ジル・ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』

曇。
朝起きて何時間も睡眠の後始末にかかるのはつらいのだが、これが自分のいちばんの仕事だと思って頑張る。なかなか安定化しないのだけれど、まあ行き詰まってはいない証拠(?)と思ってみずから慰める。凡夫。

ザリガニが見ていた...。
既に更新されていないのだが、「ザリガニが見ていた...。」というブログがあって、プログラミングの話がおもしろいので時々見ている。で、そこにいわゆる「ペントミノ」パズルをプログラミングで解くのにチャレンジするという記事があって、これが頗る楽しかった。

ペントミノっていうのは皆んなよく知っている

というやつである(画像は元記事から借用しました。感謝!)。じつはこの記事を見かけて考え方は読まず、自分で考えてみたが、とても解けなかった。で、ギブアップして先ほどコードを読んでみたところなのである。いやあ、最初の Python のコード、すごいですね。ザリガニさんも考えてみたがわからず、検索して見つけたというコードだ。しかしまあそれだけならかしこい人はいるもんだみたいなので終ってしまうが、ザリガニさんの解説と高速化のための modify の話がおもしろすぎる。僕にはこういう記事は書けないなあ…。

業務連絡です。mathnb さんは母のブログのコメント欄にわたくしのどうでもいい話を書かないで下さい。母もわたくしも不愉快に感じておりますので。マナー違反です。


僕のいつも巡回しているブログ(特に名を秘す)に、こんな文章があった。

それにしてもなんだろう、もう人間というものは本当に不要なのだと思わずにはいられない。必要とされる人間、この世に居場所があっていいと許されている人間は、多く見積もって上位2%くらいではないだろうか。あとはもう、機械と変わらないか、機械以下の存在にすぎない。壊れたら捨てればいい。そんなものでしかない。そして、AIやらなんやらの進化によって、そのブルースは加速していく。避けられない道だ。

僕もこれはそのとおりだと思う。僕は人間が元からこうだったとは思わない。しかし、社会というものはこうなるように「進化」してきた。いまや、お互いにカス呼ばわりするのがふつうの時代である。そして皆んなカスになっていく。人間の尊厳などというものはない。子供を作らないのは、皆んなそのことに気づいてしまったからだというのはおそらく正しい。あとは、死ぬまで快楽中枢を刺激し続け、苦痛を麻痺させるしかない人生だ。いや、それはあまりに悲観的だろう、ほとんどの人間は楽しく家族を作り、幸せに一生をすごしている筈だと言われるかも知れない。ああ、すばらしい、そういう人たちがひとりでも維持できることを心から願いたいと思う。

唯一希望があるとすれば、それは弱者の存在だ。弱者ほどこの事実に早く気づくことになっているからである。そして日本という社会は弱者を圧殺する。すばらしき社会の到来!

それにしても、「壊れたら捨てればいい」とは言い得て妙だ。日々「壊れた人間」が廃棄されていく。幸せなあなたも、一旦「壊れた」らもうおしまいである。まわりは神妙な顔つきで、「悪いね、本意ではないのですよ、きっと誰かが助けてくれるさ」とかいいつつあなたから去っていくだろう。しかし、あなたはそこで事実を認識すべきだ。事実がわかれば、まだまだ我々は生きていける。そんなにまでして生きてどうするといわれればそれはそうだが、まあ生きていればいいのである。自分もだらだらと生きているだけである。そうやって生きていれば、人生などそんなに長いものではない。心配しなくてもそのうち終わります。


ああ、クラいな。僕は普段はそんなにクラいやつではないのだが、文章を書くとついクラくなっちゃうな。どちらの自分も本当の自分なのだけれど。

夜、仕事。ひどく寒いな。

上でひたすらクラいことを書いたが、いまの高校生たちは多くは(自分たちではあまり気づいていないのだが)その根底でどうしようもなく絶望的なので、おもしろいことに、僕は奴らを元気づけるようなことばかり言っている。いや、ひたすら呑気なことをほざいているというか。奴らは「本当ですか? そんなことを信じていいのですか」と訊いてくる。僕が奴らに教えてやれるのは、結局、失敗などしたところでじつは致命的なんかではないということだけだ。一方で、アマい考えはあっさり潰してやる。そして、自分の中に真実があれば、奴らは僕からそれを勝手に読み取っていくだろう。それくらいのことはわかっている。何を読み取るかは、それぞれだろうが。

しかし、奴らを見ていると勉強はできても本当に何も知らない。そして、奴らのまわりにいる大人たちも何も知らないことが痛切に知れる。ってちょっと傲慢ですね。あーあ。

ジル・ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』読了。堀千晶訳。副題「冷淡なものと残酷なもの」。自分はドゥルーズがわかるふりはしない。けれども、そのおもしろさに言及しないわけにもいかない。って矛盾しているので正確なところをいうと、自分はちょっとだけドゥルーズがわかるのだ。そしてそれだけでも充分におもしろいのである。じつに、自分の頭の悪さが残念である。でなければ、もっともっと楽しめるのに。僕は例えばデリダがよくわからなくてもさほど残念ではないが、ドゥルーズに関してはその反対だ。
 しかしテキトーなことをいうが、ドゥルーズはたんに書かれた内容がおもしろいだけではないのだな。本書の訳者解説には色いろ教えられ、なるほどと思ったところが多かったが、ドゥルーズの本文を読んでいるほどおもしろくないのである。ドゥルーズの文章の魅力を語るのは自分の手に余ることだが、こんな新鮮な文体で哲学を語った人はまず他にはいないとでも言うか。まあこんなのは何もいわないのに等しいので、とにかくまあ読んでみて下さいとしか言い様がない。自分もわからないなりに、またドゥルーズをきっと読み返してみたいと思っている。楽しみはまだまだ残っているのだ。(AM01:37)

しかし、「入門書」でドゥルーズをお勉強しても、イヤになっちゃいませんかね。もちろん研究者になりたかったりエラそうなことを言いたかったりするのならそれではダメだが、わかるふりをしないでいきなりドゥルーズ自体を読めばいいのではないのかな。我々は、別に好きで読んでいるのだから、わからないのにわかるようなふりをしなければいいのだと思う。まあ、読み方の「正解」ってのがあると思い込んでいるのなら仕方がないが。しかし、それこそ「ポスト構造主義」的な読み方ではないんじゃないの? どうでもいいけれどね。

ジャック・デリダ『歓待について』

晴。
寝る前に中沢さんと井筒先生を読んだせいか、起床前にいい夢を見る。これだけ長い部分を覚えている夢はひさしぶり。しかし起きてみると、いまだに底の方にきたないものが澱のように沈んでいることに気づく。ネットの汚さである。こういうのを自分の個性だとかん違いしている人が少なくないのではないか。

昼からカルコス。いつもと同じくちくま学芸文庫をゲットしたあと、コンピュータ書のコーナーへ。あいかわらず Python 本の出版ラッシュで Python の勢いがすごい。やっと出た新刊の Ruby 本をもう一度立ち読みしてみるが、迷ったものの買わずに済ませる。Python機械学習ディープラーニング)という本はたくさん出ているが、Ruby では一冊もなし。入門書以外の Ruby 本が出なくて、やはりいま Ruby の人気は落ちているのだなと実感する。これは Ruby そのものよりも、Ruby on Rails が緩やかに凋落しているせいであり、この現象はアメリカで特に当てはまるらしい。日本の Ruby のコミュニティ自体はそれほど悪い状況でもなさそうで、Ruby コミッターの方たちも活発に開発しておられるのがツイッターなどからもわかる。自分は RoR はまったく関係がないし、RoR 以外のところでおもしろい本を待っているという感じ。

それから、「群像」で始まった中沢さんの連載を立ち読み。ついに「レンマ学」の連載が始まって少し興奮している。いまや分析的な理性である「ロゴス的理性」の複雑化はとどまるところを知らず、AI などはその最先端であろう。近代の「ロゴス的理性」は至るところで限界にぶち当たっており、その退廃(=過剰な隆盛)が世界を覆っている。中沢さんのいう「レンマ学的知」というのは「ロゴス的理性」以外に人類に普遍的に備わっているが、いまやそれが陽に注目されることはほとんどない。「レンマ学的知」は包括的で直感的な知であり、中沢さんによってそのような名前が与えられたのは最近であるが、中沢さんが若い頃から繰り返して語っていることでもある。因果ではなく縁起によって働く知。中沢さんは今回これをさらに深化させ、華厳仏教を南方熊楠によって読み解くという展開になるのかなと予想される。かつては「レンマ学的知」というのは「東洋的思考」という形で先人たちによって言及されてきたことがあるが、もはやそれは東洋でも急速に衰退しつつあり、世界を「ロゴス的理性」が覆い尽くそうとしている現在、「西洋対東洋」という枠組みは既に存在しないといってよい。それゆえ中沢さんは、「レンマ学」という、新しい言葉を日本のある学者から取り入れたということである。連載が楽しみでならない。

ネットを見ていても、若い人たちにおける全面的な「ロゴス的理性」中心主義の支配はまぎれもなく、もはや屈託がないくらいである。それは、ツイッターなどをささやかに見ているだけでも紛れもないことだ。世界を一元的な「正義」が覆い尽くそうとしている。

なお、急いで注記しておくが、これは「レンマ学的知」=善、「ロゴス的理性」=悪というような話ではない。これは強調しておく。

それにしても、自分の無力がはがゆい。つくづく凡庸さを痛感させられる。少しでも巨人たちの跡を追うことができればと思う。

ジャック・デリダ『歓待について』読了。

歓待について (ちくま学芸文庫)

歓待について (ちくま学芸文庫)

ブレイディみかこ『労働者階級の反乱』 / ポール・オースター『闇の中の男』

晴。

今日は一日早い「鏡開き」で、一年ぶりにぜんざいを食した。僕はおもちが好きなのだけれど、今日はちょっと量が多くて食べ過ぎの感じ。ちなみに当地のお雑煮はきっと日本一シンプルなもので、四角いもちと「もち菜」が入っているだけなのです。他には一切なし。だから、もち自体がおいしくないと食べられないし、そうしたおいしいおもちだとこれ以上おいしい雑煮はないと、当地の人間は確信している。


昼からミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー。少し前に話題になっていた、ブレイディみかこの新書本を読む。これはなかなかおもしろい。著者はイギリス在住で夫がいわゆる労働者階級の人であり、一昨年のイギリスの EU からの離脱を問う選挙で、彼女の夫も含む周囲の多くの人が「ブレクジット」(Brexit=EU 離脱)に投票してそれが多数派になった。その「衝撃」を理解するための「お勉強」の成果が本書ということである。まだ半分くらいしか読んでいないが、イギリスの現在の「労働者階級」というものがこんなだとは、自分はまったく知らなかったし、またその中身も結構意外な感じがした。こういうと自分の偏見丸出しなのだが、西洋人というのは「労働者階級」でもはっきりとした理詰めの意見をもっていますね。自分などはこれに比べたら全然論理的でない。しかし、悪い言い方をすると「理屈のつかないことはない」みたいな悪しき日本人的な感想をどうしても抱いてしまうところがある。ただ、「他者」と向き合うには「論理」が欠かせないことにも気づかされる。つまり、わたくしなどは真に他者に向き合っていないということであるのだろう。さらに読みます。

しかし、フードコートはうるさいね。ノイズ・ミュージックを大きい音で流している中で読書するようなというか、まあそのうち慣れてはきますけれど。前行っていたミスドのほうがよかったけれどなあ。
イオンに入っている本屋へ行ってみたのだが、ちゃんと岩波文庫ちくま学芸文庫などもありますね。それらの新刊は入っていないのだが。ひさしぶりにメジャーな文庫レーベルの背を色いろとながめていたのだが、じつに知らない作家ばかりになっている。やはり本に対しても次第に好奇心がなくなってきているのかなと思った。結局、一冊も買いませんでした。

ブレイディみかこ『労働者階級の反乱』読了。上にも少し書いたが、全部読み終えてみると多少読後感がちがった。本書の問題意識としては、現在のイギリスにおいては「労働者階級」の語の頭に「白人」の付いた、「白人労働者階級」というものがあって、それらがじつはマイノリティに見えないマイノリティになってしまっているというものであろうと思われる。でもね、自分にはそれは興味深い事実ではあるが、いまひとつ自分にとっての切実感がなかった。それよりも、まあ情緒的な読みになるが、本書第三部の「英国労働者階級の100年」という、歴史の話がおもしろかったのである。有り体に言ってしまうと、日本の政治はひどい話が多いと思っていたが、イギリスもこれはこれでひどいものだなあなどと思ってしまったのだ。例えば長期政権だったサッチャー首相の考え方というのは、成功者は優秀でまともである一方、経済的弱者は怠け者のクズにすぎないというようなもので、これがあまり誇張でもないというくらいなのだった。そのサッチャー政権が、11年間も続くのである。日本でも次第にそのような「新自由主義」的な考え方が多く見られるようになってきたし、この傾向はさらに続くであろう。まあ、頭のいい人たちが色いろ考えるだろうが、何が正しいのかねという感じである。それはともかく、本書は骨太な本で、自分にはなかなか消化できていない内容の濃さ・深さをもっていることは疑いない。誰が読んでも、それなりにおもしろく、また有益な本であろう。


図書館から借りてきた、ポール・オースター『闇の中の男』読了。柴田元幸訳。うーん、何というか、素直にこの小説を読めば、たんなる失敗作であるというほかない。この小説は、その中で小説を書いている老人と、その書かれている小説の同時進行という、実験的ではあるがある意味陳腐な仕掛けで展開していく。そして、小説内小説の主人公が語り手の老人を殺すという展開が予想されるように話は進んでいく。けれども、その小説内小説は途中で無意味に主人公が殺されてしまい、あとは老人とその(破綻した)家族の話が脈絡もなく続いて、終わりもまたテキトーなものである。何というか、小説家オースターに「やる気がない」。老人の話も小説内小説もどちらも、正直言ってまったく退屈かつ陳腐である。
 巻末の訳者解説によれば、本書はいわゆる 9.11 に関した小説ということになる。9.11 とは思い出さねばならないが、2001年9月11日に起きた、いわゆる「同時多発テロ」のことである。また、その帰結の対イラク戦争。確かに本書の小説内小説の中で、それに関する固有名詞が言及されたりすることは事実だ。しかし、それ以外の少なくとも外面的な関係は現実と小説の間にはなく*1、いま読めばよくわからないというしかない。訳者の柴田氏は何度も 9.11 を強調されて、本書は特に失敗作とされることもない(まあ、訳者としては当然であるが)。もともと僕にはポール・オースターという作家はよくわからないというか、あまりおもしろく読めないのだが、世間では人気があるようだ。もちろん、それで世間がまちがっているというつもりはない。皆さんが読んで判定して下さるとありがたい。

闇の中の男

闇の中の男

何となくアマゾンのレビューを覗いてみたのであるが、絶賛の嵐である。皆さんはそちらを参考にされるとよいと思う。


 

驚くべき話だ。上の津上俊哉氏の論考というのを是非読んでみて欲しい。ツイートしている山下ゆ氏はこの論考を肯定しているようだが、あらゆる「過去の行為」も含めた莫大な個人情報が他人(あるいは国家を含めた何らかの組織)の利用可能になるとは、そんなことが許される時代がくるのか。細かな「犯罪」も含め、あらゆる個人の「信用」が数値化されてビジネスや政治に使えるようになる…。例えば「信用」の点数の低い人間は、電車も飛行機も利用できないとか。津上氏の論考では「デジタル・レーニン主義」と冗談ぽく呼ばれているけれども、これが「全体主義」でなくて何なのか。もうそういう時代が始まっているということなのか、津上氏はプラグマティックな対応をするべきという立場であるようだが…。また、完全なる「数値による階級社会」の誕生でもあるだろう。「中国ススンデル、スゴイ」はわかるが、マジですか…。若い人たちはこれを受け入れるしかないのかな。おっさんはあんまり長生きしたくなくなってくるな…。

それにしても、「個人情報の保護」が否定的なニュアンスを帯びるような時代がくるのかも知れないとは。変な話だが、「犯罪をする自由」がなくなるのは歓迎すべきことなのだろうか。ここで基本的なことを指摘しておくと、何が「犯罪」なのかは定義による。その「定義」をする人間乃至組織はというのは、いったいどういうものになるのか。仮にその「定義」をするのが国家だとして、そうすると国家が特定の個人を破滅させることが一瞬で可能になる、そういう時代の到来があり得る…。反権力、反体制ということは不可能になる…。

とうとうそういう時代が来るのか。

*1:ああそうだ、語り手の老人の孫娘の元パートナーが、イラク戦争関連の「テロ」で殺害されるという記述もあったな。しかし、それが何だというのだろう。これで対イラク戦争が批判されているということにでもなるのだろうか。たぶん、著者はこのエピソードを全体のオチにしているというつもりなのであろう。

ゲンデュン・リンチェン編『ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝』

日曜日。晴。
 
いまの日本に生きていて驚かされることのひとつに「沖縄ヘイト」のすさまじさがある。ツイッターなどを見ていると、まともそうに見えていた知識人(?)たちすら、「沖縄ヘイト」に参加しつつあることが見られ、いったいどうなってしまったかと思わざるを得ない。また、それに対抗する態度を見せている者は、沖縄人以外にはさほど多くないのが現状だと見える。自分は恥ずかしながら傍観者的パヨクであるが、日本の壊れっぷりが日々ひどくなっているのを目の当たりにしていて、おそろしさと絶望を感じている。

ふとん内子宮にくるまっている。退行して戻ってきたくない感じ。
昼過ぎ、県図書館。外は曇っていた。

ゲンデュン・リンチェン編『ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝』読了。やー、呆れたエロい活仏だな。美人が好きですぐセックスしちゃうし、処女を抱くときはペニスにバターを塗るし、酒は飲むし、婆さんを弓で射って殺すし、魔物は燃え盛るちんこ(笑)を振り回しては撃退するし、まったく瘋狂である。ドゥクパ・クンレーは 15~16世紀の実在のチベット僧で、実際に型破りな僧「ニョンパ」であったらしい。ブータンを教化し、ブータンで愛されて数々の伝説が伝えられてきたが、本書はブータンの「法王」にあたるらしいゲンデュン・リンチェンが、それらの伝説を編んだものとされる。本書の成立は1966年とまだ極最近で、そのことにもまた驚かされる。ブータンの民衆はこのような説話を愛し、20世紀まで伝えてきたのだと考えると、感動的なものすらある。いや、マジメな僕ちんなどにはなかなか飲み込めないところもあるが、それにしてもブータンの人たちはえらいね。いや、日本人も昔は結構えらかったのだが、最近はコンビニからエロ本を撤去して、かわりに(?)沖縄ヘイトにいそしむなどというまったく立派すぎる国民になって、うんざりする。僕みたいなバカにはニョンパの方がよろしい感じ。って何もわかっていないので地獄堕ちみたいなもんですが。

ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝 (岩波文庫)

ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝 (岩波文庫)

しかし岩波文庫、なかなかやるやん。

 

シューベルトの「さすらい人」幻想曲 D760 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。音源はよく知られている 1963年のスタジオ録音で、これまで CD でも繰り返し聴いてきたものである。今回思ったが、ペダルを踏む音が結構大きく入っていて、ちょっと耳障りなくらいだった。リヒテルはインタビューでいちばん好きな曲としてこの曲を挙げていたが、まさしくそれにふさわしい演奏。ポリーニの録音と合わせて、この曲の決定的なそれだと思う。リヒテルは基本的に近代の総決算というピアニストだと思うが、ゆえに次第に聴かれなくなっていくのかも知れない。自分は、史上最高のピアニストだと思うが。


シューマンの「交響的練習曲」op.13 で、ピアノはマリア・グリンベルク。いやあ、ビシッと決まったカッコいい演奏だ。しかしロシアの大家で、しんどかった…。ロシアの大ピアニストたちからパクりたい感じがする。中心の位置がいい。

崔南龍『一枚の切符』

晴。


バッハのヴァイオリン協奏曲第二番 BWV1042 で、ヴァイオリンはヘンリク・シェリング、指揮はネヴィル・マリナー


モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第四番 K.218 で、ヴァイオリンはアンネ=ゾフィー・ムター


ショスタコーヴィチ交響曲第三番 op.20「メーデー」で、指揮はキリル・コンドラシン。めちゃめちゃ趣味の悪い曲だが、20代前半のショスタコーヴィチの才能は明らかなので聴き続けられる。それほど価値の高い曲とは思えないが。しかしモスクワ・フィルは弾けるなあ。


 
池内恵先生、僕はあんまり好きではないのだけれど、これは本当にすごい。徹底的に筋を通している。やはり優秀な学者だけあって、色いろ考え抜いておられるなあ。リスペクトせざるを得ない。速攻でフォローさせてもらった。
しかし池内先生ではないけれど、SNS なんてなかった方がよかったというのは、どうも賛成せざるを得ない。バカな自分も、じつは似たようなことを思っていたが、ますます確信が深まった。でも、もう二度と以前の世界には戻れないのだ。とにかく、ネットのせいでバカが可視化されてどうしようもない。自分もなるたけ世界に迷惑をかけないようにしよう。

ツイッターを見ているとこのところまともな人は、リテラシーがないやつには一応いうべきことは言っておいて、あとはもう議論してもムダという雰囲気になっていて、自分は「バカは相手にしないとか、こんなことでいいのかなー」とも思っていたのだが、やはりもうそうするしかないのかも。そして、リテラシーのない奴らばかり増えていくという。もうおしまいの構造。

結局ドイツみたいに、ナチス賛美は有罪とか、法で取り締まるしかないのかも知れない。あー、おっそろしい時代になったものだ。絶望的でわたくしは半分現実逃避している。

人間の中にはいかにきたないものが充満しているかということだな。自分もツイッターを見たり、ご飯のときテレビニュースを見たりしていると、自分がいかにイヤな人間か痛感する。知らぬ間に他人に対する軽蔑心が沸き起こっていて抑えがたいのだ。身の程知らずの、どうしようもない奴。

図書館から借りてきた、崔南龍(チェ・ナムヨン)『一枚の切符』読了。副題「あるハンセン病者のいのちの綴り方」。図書館で出会わなければおそらくは読むことのなかった本であろう。読んでよかったと思う。けれども、それ以上何を書いていいのか、自分にはよくわからないところもある。そもそも、いまや「ハンセン病」と書いてどれくらい通じるのか。「癩」などと書けばなおさらであろう。日本国は長いことハンセン病者を「隔離」し、この国から彼ら彼女らを「絶滅」させようとしてきた。それは、「断種」という措置などにはっきりと現れた国家の意志である。ハンセン病の感染力は非常に弱いことが既に知られ、また今日では完治し得る薬があるので、もはや過去の病になったとある意味ではいえよう。しかしまた、国家や「健常者」が弱者に対してどんな仕打ちをするかという観点から見れば、到底過去の話ではなく、同型の構造はいまやますますこの国に現れてきているともいえるだろう。さらに、著者はいわゆる「在日」のひとである。
 けれども、本書のほとんどの文章は淡々と事実を書きしるすようなそれだ。そこには激しい感情はあまり見られない。著者が生涯のほとんどを過ごした「光明園」は、また著者の生きる場でもあったのだ。「隔離」を受けていても、そこで半生を過ごすひとたちが少なからずいたわけであり、彼ら彼女らにとって単に忌まわしいだけの場所ではなかったように、自分は読み取った。それが誤読かどうかは知らない。ただ、著者が怒りのようなものを示すのは、己もまた人間なのに、人間として扱われなかったときであると思える。そして、何かの捌け口として弱者を「必要」とするおそるべき人間(それもまた人間とするならばだが)が絶えることはないのだ。人間とはそういう生き物なのだと思う。

一枚の切符――あるハンセン病者のいのちの綴り方

一枚の切符――あるハンセン病者のいのちの綴り方


中沢新一を読む。築地市場のアースダイバー、じつにおもしろかった。本書で中沢さんは、このままだときわめて貴重な日本の「富」が失われると警告しているが、既に豊洲新市場への移転が決定されている。中沢さんは本書で「仲卸」という存在の貴重さを何度も強調している。魚を知り尽くした700人もの「味覚の職人」たちの価値は、到底金銭で計ることのできないものなのだ、と。そして豊洲新市場は、仲卸のいきいきとした活動を殺してしまう設計になっているのだと。その議論の説得力を本書で実感して頂きたいものである。しかし、いずれにせよ残念ながらもう手遅れのようであるが…。(AM0:22)

こともなし

晴。


モーツァルトのピアノ・ソナタ第十番 K.330 で、ピアノはクリスティアン・ツィマーマン。ツィマーマンのような大家がこのような作為の少ない演奏をしてくれるのはありがたい。バレンボイムみたいな生き生きした演奏もよいのだろうが、自分にはちょっとわずらわしいのである。でも、グルダなんかははじけるような演奏なのに、作為が感じられないのだけれどね。

いまはあちゅうさんのネット記事のせいで #metoo が爆発的現象になっているが、驚かされる。確かに痴漢とか抵抗できない人に性的な行為を行うというのは最低だ。というか、犯罪である。自分だって知らないキモいおやじに体など触られたくはない。けれども、そうは思う自分だが、どうも自分は最低な人間であることを免れないようだ。自分には、ちょっと会社の女の子のおしりにタッチしてみたいとか、若い女の子にきわどい冗談を言ってみたいとか、そういう願望は明らかにあると思う。ただ、いまとなっては女性に接する機会がほとんどないので、そういうことをしないだけだ。実際、20代の頃には、女性にかなりきわどいことをしたこともある。結局その女性とは結婚しなかったので、もしかしたらセクハラだったということになるのかも知れない。いまや、僕にきわどいことをされた女性たちにとって、それがイヤなことでなかったのを願うばかりである。以上、最低男でした。

とにかく、20代の頃はホントにやたらとセックスがしたかった。いまはそういう気持ちが衰えてきたので、却ってラクな気持ちになれたというのは本当である。いまでは、もの静かに(?)エロサイトでも見て楽しんでいる程度である。ちなみにエロサイトも受け付けないという潔癖な女性もおられるが、それはかなりの部分、男性の性欲の本質に繋がっているので、できればお許し頂きたいものだと思う。性の商品化は、古代からあったのだ。娼婦は世界最古の職業であるという。まあそれをなくすべきだというのが時代の流れなら、仕方がないとは思うし、受け入れるけれども。なお、自分は娼婦を買ったことはない。そういう嗜好ではないというだけであるが。

男女の仲というのも、むずかしい時代になったな。なお、西洋文明の価値観が入ってくる前の日本では、農民などの間では処女性に何の価値もなかったし、貞操を守るというような考え方もあまりなかった。江戸時代は既に安全に女性の一人旅ができた時代であり、実際に女性の一人旅は少なくなかったことがわかっている。それは不心得な男性がいなかったわけではなく、要求されれば女性があまり拘らなく性を与えたからであるらしい。別に、そういう時代がよかったといいたいわけではなく、性のモラルというのは時代と場所によって大きく変わるというだけのことである。いまはそういう時代ではない。

上の話とはあまり関係がないかも知れないが、僕は他人とのコミュニケーションというのは結構イヤなものだと思っている。それが不愉快なものであるというのは、むしろ当り前なのであって、しかし時代はそのコミュニケーションの「イヤさ」をできるだけ排除していこうという方向に進んでいる。いまの若い人たちについてよく言われることだが、彼ら彼女らは仲間内のコミュニケーションにできるだけ障害をなくそうとする傾向にあるという。つまり、仮に友達のしているのがまちがったことでも、友達がちょっとでも不愉快になるような言動はできるだけ行わない。同様な例であるが、大学の先生が彼ら彼女らの論文の問題点を指摘したりすると、自分の全人格を否定されたように思う子たちが跡を絶たないそうだ。男女関係についても、できるだけあたりさわりなく、だけれども突然王子様王女様が現れてくるのを願望するらしい。いや、それは極端な話なのかな。よく知りません。

まあ、こんなことを言っているオヤジだから結婚できなかったのかも。

あーそういや、いらぬことを思い出したが、自分は子供の頃、好きな女の子をいじめたことが何人かある。ごめんなさい。でも、たぶん彼女たちは、自分がその子が好きなせいでいじめていることに気づいていたと思う。気づかいでか。

先ほどまで NHK の「超絶凄技!」という番組を見ていて、日本の大学生たちがオーストラリアでのソーラーカーレースにチャレンジするという話だったのだが、感動して心が洗われるような気持ちになった。いや、単純な男ですね。日本からは 3チームが出場して、華々しい結果というわけではなかったが、いずれも完走し、いずれも見どころがあった。特に名工大のチームは完走した中では最下位で、それも特例(あまりにも不運だったのを克服したのに、一般道の渋滞その他の原因で、あと 2分というところでタイムオーバーだったのだ)で認められたのだが、じつはそこが特に感動的だったのだ。最後、名工大は独創的な「マジックブースター」で、技術賞を受けたのである。自分はこういうひたむきな若者たちに弱い。自分は技術に打ち込むことはなかったのだけれど、それなりにひたむきにやってきたことはあると思っている。でも、彼らのようなチームという形ではなかったな。学生たちは、カメラの向こうで輝いていました。

しかし、技術に打ち込むというのはうらやましいな。上の「マジックブースター」を考案した学生は日夜レースのことばかり考えていて、自分の本来の研究までおろそかにするという、技術というものはそこまで打ち込みがいのあるものなのだと思う。いまの中国人たちが輝いているのも、彼らのあまりにも楽天的な技術に対する確信のせいでもあると、我々は気づきつつある。それはまるで一昔前の日本で、上の番組でも学生たちをサポートした日本の技術者たちは、どうやらその世代に相当する感じだった。何となく、頭ばかり使ってきた自分などは、忸怩たるものを感ずる。そうそう、農業なんかも、本来はそれに近いところがあるのではないか。そんな気がする。


細野晴臣の新譜『Vu Jà Dé』を聴く。二枚組。
先日はカバー曲を集めたディスクを聴いたので、今回はオリジナル・アルバムの方を聴いた。何というか…自分以外は聴いちゃダメ、って感じ。ホントに自分、細野さんが好きすぎる。源一郎さんも細野さんも、カッコいいじいさんたちだなあ。特に、アルバム『HoSoNoVa』にも収録されていた「悲しみのラッキースター」には、センチメンタルな気分になってどうしようもなかった。このバージョンは青葉市子さんとのデュオになっているのだけれど、もう悲しすぎる。って、別に悲しい筈のないシンプルな歌なのですが、失われてしまった幸せ(比喩です)のようなセピア色のものを開いたアルバムで見つけたとでもいうか、いや青葉市子さん、細野さん、そんな風に歌っちゃいけないでしょ? 泣くじゃないか。


 

けものフレンズ第7話を観る。


極東ブログの仏教に関する最新エントリを読んで一瞬軽蔑心が湧いたが、何とも未熟であるな、自分は。仏教に関しては finalvant も宮崎も(さらにいえばおそらく佐々木も)頭でっかちでどうしようもないピントはずれのことを言っているが、そんなありふれた話に反応する自分が未熟である。仏教が知りたかったら仏教を生きてみるしかない。例えば吉本さんに仏教徒という自覚があったのか疑問だが、確かに吉本さんは仏教を生きておられた。そんなことをいっても、宮崎にも finalvent にも何もわからないだろうが。これは別に批判ではない。自分の言っていることが理不尽で当然理解され得ないことはわかっているし、未熟者の自分がその理解の壁を打ち砕くことができないのもわかっている。まあその気もないし。ただ、自分が未熟であることを自分で確認したかっただけだ。ただ、自分はいまの日本で仏教を生きている人たちが存在するのは知っている。ちなみにどうでもいいが、それは宮崎でも finalvent でもない。それにしてもこの程度で道元とは聞いて呆れる。よくもそういうことがいえるものだ。ニセモノが、恥を知るといい。

言っておくが、finalvent も宮崎も自分よりはるかに頭のいい人たちであり、仏教に関する知識も自分はおそらく彼らに遠く及ばない。そしてそもそも自分は未熟者である。それゆえ、あんまり下らない連中を見ると腹が立ったりするのである。愚か者とは自分のようなのをいう。