崔南龍『一枚の切符』

晴。


バッハのヴァイオリン協奏曲第二番 BWV1042 で、ヴァイオリンはヘンリク・シェリング、指揮はネヴィル・マリナー


モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第四番 K.218 で、ヴァイオリンはアンネ=ゾフィー・ムター


ショスタコーヴィチ交響曲第三番 op.20「メーデー」で、指揮はキリル・コンドラシン。めちゃめちゃ趣味の悪い曲だが、20代前半のショスタコーヴィチの才能は明らかなので聴き続けられる。それほど価値の高い曲とは思えないが。しかしモスクワ・フィルは弾けるなあ。


 
池内恵先生、僕はあんまり好きではないのだけれど、これは本当にすごい。徹底的に筋を通している。やはり優秀な学者だけあって、色いろ考え抜いておられるなあ。リスペクトせざるを得ない。速攻でフォローさせてもらった。
しかし池内先生ではないけれど、SNS なんてなかった方がよかったというのは、どうも賛成せざるを得ない。バカな自分も、じつは似たようなことを思っていたが、ますます確信が深まった。でも、もう二度と以前の世界には戻れないのだ。とにかく、ネットのせいでバカが可視化されてどうしようもない。自分もなるたけ世界に迷惑をかけないようにしよう。

ツイッターを見ているとこのところまともな人は、リテラシーがないやつには一応いうべきことは言っておいて、あとはもう議論してもムダという雰囲気になっていて、自分は「バカは相手にしないとか、こんなことでいいのかなー」とも思っていたのだが、やはりもうそうするしかないのかも。そして、リテラシーのない奴らばかり増えていくという。もうおしまいの構造。

結局ドイツみたいに、ナチス賛美は有罪とか、法で取り締まるしかないのかも知れない。あー、おっそろしい時代になったものだ。絶望的でわたくしは半分現実逃避している。

人間の中にはいかにきたないものが充満しているかということだな。自分もツイッターを見たり、ご飯のときテレビニュースを見たりしていると、自分がいかにイヤな人間か痛感する。知らぬ間に他人に対する軽蔑心が沸き起こっていて抑えがたいのだ。身の程知らずの、どうしようもない奴。

図書館から借りてきた、崔南龍(チェ・ナムヨン)『一枚の切符』読了。副題「あるハンセン病者のいのちの綴り方」。図書館で出会わなければおそらくは読むことのなかった本であろう。読んでよかったと思う。けれども、それ以上何を書いていいのか、自分にはよくわからないところもある。そもそも、いまや「ハンセン病」と書いてどれくらい通じるのか。「癩」などと書けばなおさらであろう。日本国は長いことハンセン病者を「隔離」し、この国から彼ら彼女らを「絶滅」させようとしてきた。それは、「断種」という措置などにはっきりと現れた国家の意志である。ハンセン病の感染力は非常に弱いことが既に知られ、また今日では完治し得る薬があるので、もはや過去の病になったとある意味ではいえよう。しかしまた、国家や「健常者」が弱者に対してどんな仕打ちをするかという観点から見れば、到底過去の話ではなく、同型の構造はいまやますますこの国に現れてきているともいえるだろう。さらに、著者はいわゆる「在日」のひとである。
 けれども、本書のほとんどの文章は淡々と事実を書きしるすようなそれだ。そこには激しい感情はあまり見られない。著者が生涯のほとんどを過ごした「光明園」は、また著者の生きる場でもあったのだ。「隔離」を受けていても、そこで半生を過ごすひとたちが少なからずいたわけであり、彼ら彼女らにとって単に忌まわしいだけの場所ではなかったように、自分は読み取った。それが誤読かどうかは知らない。ただ、著者が怒りのようなものを示すのは、己もまた人間なのに、人間として扱われなかったときであると思える。そして、何かの捌け口として弱者を「必要」とするおそるべき人間(それもまた人間とするならばだが)が絶えることはないのだ。人間とはそういう生き物なのだと思う。

一枚の切符――あるハンセン病者のいのちの綴り方

一枚の切符――あるハンセン病者のいのちの綴り方


中沢新一を読む。築地市場のアースダイバー、じつにおもしろかった。本書で中沢さんは、このままだときわめて貴重な日本の「富」が失われると警告しているが、既に豊洲新市場への移転が決定されている。中沢さんは本書で「仲卸」という存在の貴重さを何度も強調している。魚を知り尽くした700人もの「味覚の職人」たちの価値は、到底金銭で計ることのできないものなのだ、と。そして豊洲新市場は、仲卸のいきいきとした活動を殺してしまう設計になっているのだと。その議論の説得力を本書で実感して頂きたいものである。しかし、いずれにせよ残念ながらもう手遅れのようであるが…。(AM0:22)