エロスの解体 / ガストン・バシュラール『水と夢 物質的想像力試論』 / 『ニセコイ』全25巻を読む

深夜目覚める。昨晩は灯りを点けたまま眠ってしまったので、消灯してまたうとうとするも、完全には眠れず。昧爽起床。
曇。外を見ると霧か靄が出ているか。
 
早い朝食のあと二度寝する。深夜目覚めてあと眠れなかったのは、お腹が空いていたせいもあるな。
晴れる。蒸し暑い夏がとうとう始まったか。
 
 
バシュラールの『水と夢』を読む。バシュラールは水と女の深い関係を嬉々として語っているが、このようなナイーブな夢想は早晩フェミニズムによって根底から解体されるにちがいない。例えばバシュラールは「乳」における水のエレメント性を詳しく語っているが、フェミニズムを通過した現代の女性は、「乳房は乳が詰まっているから丸いのだ」というようなバシュラールの想像的な語りを、あるいはキモく感じることであろう。男性における「女なる観念」は、これからいったいどこまで解体され崩壊していくものなのか、わたしにはよくわからない。そう、フェミニズムは男と女の差異を、どこまで破壊するのか。そこに、エロスはどこまで生き残っていけるのだろうか。まあ、そんなことわたしは、あまり興味がないといえばないのだが。それは、これからの世代の課題であって、古くさい時代遅れのわたしなどには、手のつけようもない話である。
 しかし、ふつう女と四大のエレメントの関係でいえば、大地(土)との関係が指摘されるのではないか、とも思う。女における、妊娠と出産の豊饒性は、大地であろう(ギリシャ神話のデメテルなど)。もっとも、大地としての豊饒な女性に対し、処女(とその対極の淫乱)としての(不毛な)女性の面もあり、それが水ということなのかも知れない。いずれにせよ、大地であろうが水であろうが、エロティックな存在としての女性は解体される方向にあり、いや、つまりはエロスが解体されるのである。それは、どこまで突き進んでいくのか。
 どうでもいいが、たぶん女性はこれから、みずからをエロティックな存在と見られること(水)、そして妊娠と出産(大地)を忌避していくようになると、わたしは思う。それがフェミニズムの素直な帰結ではあるまいか、知らんけど。
 

 
昼から県営プール。ここでもまた、蒸し暑い夏が始まったことを感じる。大気の存在がわかるようになってきた。
 
図書館から借りてきた、ガストン・バシュラール『水と夢 物質的想像力試論』(原著1942、邦訳2008)読了。おもしろかったが、バシュラールは(当たり前だが)あまりにも西欧人である。想像力の領域であるから、バシュラールの立論は西欧の想像力にその大部分を負っている。望むべくは、アジアのバシュラール、日本のバシュラールが存在することであろう。なかなかそれは、容易なことでない。
 しかし何にせよ、このような(バシュラール的)知性は非常に魅力的である。日本においては民俗学(柳田、折口他)の成果を中心に、近代では宮沢賢治澁澤龍彦、さらに大きいところでは南方熊楠あたりが豊かな題材となるのではないか(って、テキトーにいってます)。中沢さんなら充分に可能であると思うけれど、そんな仕事はなされないだろう(これまでの仕事に断片的に鏤められている)。後世の博学柔軟な知性に俟ちたいところだ。

本書を読んで、マリー・ボナパルト(1882-1962)が読んでみたくなった。ごく早い時期の女性精神分析学者であり、わたしなどは澁澤龍彦の著作で時々見かけた名前である。いまだ、読んだことがないが、県図書館に二冊あるようだ。
 
夜。
ニセコイ』(2011-2016)全25巻を読み終える。いやー、最悪の結末を迎えた人気ラブコメとして有名(?)な本作だが――そうかあ? 僕は最後、感動して泣きそうになったんですけど。とにかくこの作品は千棘ちゃんエンドになることは最初からわかっているので、両(片)想いのふたりを差し置いて、どうやってそれを納得させるかですよねー。作者はむずかしいハードルを越えたと思うんだが。まあ、小野寺めっちゃ人気あるからな。どう終えても非難は避けられないよね。いや、傑作だと思う。
 アニメを観返していて、原作マンガの方も読もうと思った。なにせ全25巻もある上に、中身も濃いので、一週間くらいはかかったな。まあ、いい歳こいてバカみたいというのは自覚している笑。第18巻で気持ちも伝えないまま二度と一条楽に会えないと思って千棘が泣くシーンは、ほんとにやばかった。

加藤周一問題とは何か

晴。
 
昨日のエントリを書いてからも、加藤周一さんについては随分考えた。わたしの考えるところでは、加藤周一というのは人間の営為すべてを「戦争反対」の相から眺めるというものである。戦争は(人間の作った)社会システムが人為的に作り出すものであり、まちがっても天災などではない。そのような社会システムは人工的に構築されたものであるから、決して戦争が起きないように、人為的に再構築が可能である。それに向かって、我々はたゆみない努力を続けねばならない。
 こう考えると、別に何も問題があるようには思えない。当たり前のふつうの「正しい」考えにも思える。しかし、どうしてわたしは加藤周一に、飲み込みがたさを感じてしまうのか。というか、何かの「転倒」を感じてしまう、のか。
 加藤周一さんは、戦争が避けられるなら、何でもよい。資本主義でも社会主義でもよい。東洋でも西洋でもいい。東洋にだってすばらしいところ、偉大なところはたくさんある。しかし、東洋は実質的に非論理的社会であり、野蛮である。戦争の回避には、西欧的な科学的ロジックの思考が必要だから、東洋的な非合理性は、現実的には、捨てられなければならない。抽象的論理化という意味での世界の「西洋化」は避けられないものである。
 加藤さんは「分析哲学」に多大な影響を受けたと、かつて読んだ覚えがある。これはいま流行っているところの分析哲学というよりは、いわゆる前期ウィトゲンシュタインを指すものであろう。前期ウィトゲンシュタインは、わたしのいい加減な理解では、世界をモノの集積と見るのではなく、論理命題の集積と見るものである。これはまさに西洋哲学のある意味究極であり、そしてわたしが「世界の(精神的)貧困化」をもたらす、最たる思想と考えているものだ。
 わたしは20世紀の大きな戦争をもたらしたものが、東洋的非合理性であったか、疑問に思わないでもない。日本が非合理的な野蛮にまどろんでいたとされる徳川時代、日本は300年間の平和を享受していた。日本は明治になって否応なく文明化させられ、西洋の植民地主義を中途半端に学んで、それを愚かにも実践し、アジアに迷惑をかけた上で西洋文明に敗北し、アメリカの属国となった。そして現代においてもっとも合理的な民主国家であるアメリカが、もっとも戦争を気軽にやっている国であるのは、誰の目にも明らかである。
 

いたいた。老母が教えてくれた。さて、ヌマガエルなのか、ツチガエルなのかがわからない。背中の突起が小さいようだから、ヌマガエルっぽい。ひさしぶりにカエル、見たぞ。
 
スーパー。
 
いまだに「加藤周一問題」のまわりをぐるぐる廻ってつらつらと考え続けている。結局、あの日本の愚かな戦争には、「未開社会」が西洋的な合理社会と出会い、崩壊していく際の矛盾が典型的な形で出ている、ということだ。そこで加藤周一は、「未開社会」ではなく、きっぱりと西洋的な合理社会を選択した。そういうことなのだと思う。
 日本の体験は、いま他のアジア諸国や中東、アフリカ諸国で繰り返されている。ロシアや中国といった大国だって、そこから逃れられてはいない。いずれも、伝統的な「未開社会」は崩壊させられ、そこに否も応もなく矛盾的な暴力が噴出している。いずれ世界は、現在日本が経験しているように、すべてが合理化する方向へ進むだろう。つまり、加藤周一は「正しかった」。わたしのようなどうでもいい人間は、合理性に反対するよくあるロマン的な非合理主義者、あるいは反知性主義者と見做されてゴミ箱に捨てられるだけのことであろう。陳腐なルソー主義者といっても、いいかも知れない。
 一種の非合理主義を担っていた西洋の「芸術」も、もはやその役割を終えて「無害なアート化」した。非合理主義や反知性主義では、ダメなのだ。
 おもしろいのは、アメリカのような合理社会の頂点に、非合理的な暴力が噴出し始めていることだ。かしこい人たちは、ポストモダン思想が悪かったなどといっている。世界を真理命題で埋め尽くせば、何もかもがうまくいく、と。
 
はー。わたしは自分ごときがムダに考えたって仕方ないという真実から目をそらすことができるようになってきたんだけど、それでもこんなことを考えていると徒労感ハンパないな。自分のやっていることなど、どうせ何の価値もないんだから、誰からも相手にされないってのは当たり前だよね、って思わないとやっていられない。何の価値も意味もないし、もちろん後世に残ることもない。それで別にいいんだ。ただ、ほんの少しの人がここを偶然見てくれるときもあるから、そのときだけ、それのみのコミュニケーションが成立したような、そんな無意味な錯覚を楽しんだりしている。
 


 
吉本隆明全集28 1994-1997』を読みながら吉本さんが超都市化する東京を、小さなカメラをもってひとり歩き廻っている姿が彷彿とされて、以前から読み返そうと思っていた『吉本隆明の経済学』(中沢新一編著、2014)を再読し始める。初読時は、おそらく何もわからなかったにちがいない。なるほど、中沢さんのナビゲーションを参考にしながら、これまでとはまったくちがうパースペクティブが広がってくる。わたしは思うが、吉本さんが晩年におこなった、高度資本主義に対する考察は、いまだによく読み解かれていない。現在においても孤独に放置されている。
 
夜。
オカタケの「ふくらむ読書」【27】炭焼日記|春陽堂書店
オカタケの「ふくらむ読書」【28】炭焼日記2|春陽堂書店
オカタケさんも東京をよく歩いておられる。わたしは最近、散歩していないな。
 
「侵攻初期以来の圧力」、ロシアの越境攻撃続くハルキウ BBC国際編集長が報告(BBC) - YouTube
ラファの難民キャンプで攻撃続く、人々は行くあてもなく(BBC) - YouTube
 
『黒岩メダカに私の可愛いが通じない』を読み返す。やっぱり結構おもしろいな。展開と共に、モナちゃん性格変わりすぎだろう。相手役の黒岩メダカが中身がなくて全然魅力的でないのに対し、女の子たちは誰もいきいきと描かれているな。

「現代人の精神の貧困化」を名づける、うまい言葉がない

昧爽起床。曇。
昨晩は疲れて早く寝てしまったな。早起きして昨日のブログ日記を書く。
 
しかし、空海(774-835)か。日本史のごく初期の段階で、このような天才が出たというのは、その後の日本文化に多大な影響を与えていて、それはもはや測るすべもない。ただ、突然そんな天才がぽっと出てきた筈もなく、空海の出発点は雑密(ぞうみつ)の山岳修行者だったのであり、その時点での雑密のレヴェルがかなり高かったのは、わたしにはまちがいないことのように思える。そうでなければ、日本という辺境のさらに奥から来た20代の留学生が、最先端の都会である唐の長安において、あとは権威のお墨付きを得るのみというほどの仏教理解の高みに達していたというようなことが、起こる筈はなかった。おそらく当時の雑密にはそのベースに古来日本で蓄積されてきた精神技法があって、それが漸次輸入されていた仏教経典(大日経など)と融合したのであろう。つまりは、断片的な仏教経典を持って山に入った修行者たちがたくさんいて、若き空海もそのひとりだったということだ。
 空海というと、わたしはあと、なんとなく明恵上人(1173-1232)を思い出す。ってまあ、わたしは空海明恵さんも、よく知っているというわけでも何でもないんだけどね。明恵は日本を代表する、中世の名僧のひとりで、河合隼雄先生はアッシジの聖フランチェスコ(1182-1226)と比較しておられたが、さすがに河合先生である。生涯きわめて純粋に修行のみに打ち込み、高い地点に到達した。明恵さんは華厳宗の人であるが、一方で空海を思慕し続けている。具体的な空海の著作に親しんだものなのか、それとも歴史的イメージとしての空海を慕ったのか、わたしは知らないのだが、明恵さんを生涯導いたその「夢」にも、空海が登場して重要な役割を果たしていたのではなかったか。まあしかし、知ったかぶりもこのあたりまでにしておこう。
 
庭に勝手に生えた雑草で、ムラサキツユクサは好きだ。

朝のうちしか咲いていない。ので、切り花にはならない。
 

 
高度資本主義が世界を覆うことによって急速に成立しつつある世界的な「現代人の精神の貧困化」を名づける、うまい言葉がないのが困る。資本の強力な回転が作り出す強固な制度が、「自然」のもたらす繊細でもやもやした、無限の多様性のある「アブジェクション」や「対象a」(わたしはこれらの古い用語を、勝手に誤読した形で使う)といったものを遮断し、人工的で画一的な「強度」によってそれらの(記号以前の)弱々しいものを認識させなくしてしまうという構造――それが精神の貧困化をもたらすのだ。(ちなみにこれは、現代が「鬱の時代」であることと関係がある。)「アブジェクション」や「対象a」は、本来は心の流動性に吸収されて解体され、無として消え去っていくべきものである。ただし、何かの形で無意識、あるいは心の潜勢態として残り、そこにはたぶん、何らかの「豊かさ」があるかも知れない。――そういう過程を、この強固な制度ないし構造は、ブロックし、阻止するのだ。我々は「制度」によって注入された記号(=トラウマ)の作り上げた「自我」によって、世界から「自分」を区別して「外部」を切り捨て、その内部における記号的思考で「外部」を操作して、生きていくことになる。かかる硬直した状態では、心が自発的に流動していくことが少ない。そこに、一見して記号の多様性をもちながら、判で押したように画一的な精神構造が大量生産されている世界的現在がある。
 
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。生ポン・デ・宇治ほうじ茶 きなこ+ブレンドコーヒー539円。生ポン・デ・宇治ほうじ茶 きなこは黒蜜をかけて食べた。220 kcal で低カロリーだと思ったのだが、よく考えると黒蜜の分が入っていないかも。
 先日「ブ」でたまたま購入した、ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』(文庫版2017)を読み始める。短篇集。「太陽の男たち」「悲しいオレンジの実る土地」「路傍の菓子パン」を読んだ。「太陽の男たち」は岡真理先生が映画版と比較して詳しく論じておられたと思うのだが、もはやよく覚えていない(いいかげんな読書である)。映画版は小説とラストがちがっているらしく、もとの小説では男たちはタンクの壁を叩かない。岡先生は、(よく覚えていないが)確か映画版に批判的じゃなかったか。小説で男たちがそうしないのは、運転手のアブ=ル=ハイズラーンの身を慮ったからなのだろうが。
 著者ガッサーン・カナファーニー(1936-1972)はパレスチナの小説家。Wikipedia によれば、1967年に PFLP が設立されるとそのスポークスマンとなり、1972年におそらくはイスラエルの特殊部隊によって、ベイルートで爆殺された。享年三十六。
 

 
夜。
01 中沢新一「アール・イマキュレと芸術人類学」 - YouTube
文化的創造力の世界的な枯渇、人間の精神が明らかに「悪く」なっていること、その大きな原因として現代の経済活動を考えている点など、その認識はだいたい同じだな。しかし、中沢さんは、「アール・イマキュレ」の攻撃性の欠如、平和、調和に希望を見出している。なるほどなー、わたしはまだまだだな、とてもそこまでいかない。

わたしのいう「制度」 / 内田樹『日本習合論』

雨。
 
昨日『日本の歪み』を読んでいて、「自由意志」が存在するかというので、三人とも存在するわけないじゃん、で一致していた(ただし、見かけ上存在するというふうに扱われねばならない、とも)。自由意志の存在は現代哲学でも大きな論点のひとつではないかと思う。でも、僕は、「自由意志」という言葉で、何が指されているのか、その指示対象がまったくわからない。「自由意志」って、いったい何? だから、それが存在するかどうか、というのもよくわからない。ついでにいうと、「自由」や「意志」って言葉も、よくわからないでテキトーに使っている。バカで困るぜ。
 ちなみに、「自由」ってのはよくわからないが、我々の生が「概念」、そしてそれによって作り出される「制度」(わたしはこれを少し特殊な意味で使っている。ラカンのいう「法」「父の名」*1といってもいいかも知れない)によって、がんじがらめに拘束されていることは、わかっているつもりである。
 
わたしのいう「制度」は、外部に存在する具体的な構築物のことというよりは、むしろ、概念によって頭の中に(内的に)構築されているものである。我々はどんな社会に生きたって、なんらかの具体的な社会制度の中で生きるしかない。例えば現代日本なら、学校制度や、資本主義の要請に従った会社制度。これらには、(ふつうは)どうしたって誰だって、従わざるを得ない。しかし、我々を縛っているのは、むしろその学校制度や会社制度の基盤となっている、わたしたちの頭の中の「思い込み」である。わたしのいう「制度」は、むしろそちらのことだ。
 かかる頭の中の「制度」は、頭の中でできるだけ「解体」した方がいい。具体的な社会制度からは逃れられないが、それが頭の中で「解体」されていれば、多少は「柔軟な」生き方ができるんじゃないかと、わたしは考えている。所詮、我々のできることはそれくらいだが、そんなことでもめちゃくちゃむずかしい。頭の中の「労働観」(「人生観」でもあるだろう。人生観も強力な「制度」である)という「制度」を、解体できて労働している人はなかなかいないし、恥ずかしながら、わたしだってそれができてはいないのである。
 

 
昼。
図書館から借りてきた、内田樹『日本習合論』(2020)読了。ところどころ飛ばし読みしながら(特に第三章は飛ばした)、一気に最後まで読む。

 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第九番 op.59-3 で、演奏はクイケン四重奏団NMLCD)。■クセナキスの「テトラ」で、演奏はアルディッティ弦楽四重奏団NML)。リゲティの室内協奏曲(NMLCD)。
 
【第168回】アイヌ民族差別の背景には何がある?|世の中ラボ|斎藤 美奈子|webちくま
こういうことをピックアップする斎藤美奈子は、本当に勉強になる。いまアイヌ民族差別がそんなに盛り上がっている(?)ことをわたしは知らなかったし、かつてのアイヌ民族差別が主に「無知から来る偏見」によるものだったのとちがって、現在のは「限りなく歴史修正主義に近い」というのも知らなかった。わたしはニュースに疎いので、知らぬうちに無知にハマっているなと思う。しかし、日本人、なさけないな、ガックリくる。
 
 
夜。
『彼女がフラグをおられたら』(2014)第3話まで観る。本当に下らんアニメだな。こういうの、結構好きだ笑。原作はラノベか。

*1:ただ、「父の名」というのは、ラカン化されたエディプス・コンプレックスの理論と結びつき、言葉の響きとしてあまりにも性的なニュアンスが強い。とても西洋社会的であるが、世界的な「西洋社会化」(日本ももちろんそうである)からすれば、この語を使ってもいいかも知れない。

こともなし

深夜起床。まだ喉の調子がよくないかな。あと、寝てばかりいて体が痛い。
しばらくしてまた眠る。七時頃起床。
晴。
 
ある本を読んでいて、あまりにも欧米拝跪がすぎてさすがに読めなくなった。しかし考えてみれば、日本の良質の知識人とは、日本をことさらに貶め、欧米に拝跪することで成立してきたのであろうと思う。それは、歴史の流れとして致し方なかったともいえる。そこには、日本が、抽象概念というものをあまり重視しなかった素朴な社会(しかし独自なそれなりに高度な文化をもっていた)から、抽象的普遍概念こそを重視する西洋型社会へ変化していかざるを得なかったという大きな「革命」があった。それが、明治維新の本質だ。そして、それは現在でも続いており、世界全体がその日本と同じ「西洋化」の方向へ流されていっている。もっとも、日本ほどそれが「従順に」おこなわれた国はない。日本では、明治以降ずっと「西洋化」こそ「正義」であった。
 わたしは予言するが、抽象的普遍概念の専制という「西洋化」の行き着く果てに、我々は物質的にこの上なく豊かになり、その代償として人間性と「生のリアリティ」を失うだろう(それは既に現実化しつつある)。それは西洋諸国においても同じことであり、西洋の一部のすぐれた思想家たちの予想していたとおりである。ま、さんざんいわれてきた、陳腐ですらある話さ。
 我々は抽象的普遍概念を、「抽象的普遍概念の専制」を破壊するための鎚として、使わねばならない。もはや、未来はそこにしかない。
 
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昼。
風邪をひいたりすると、自分の体、みずからの動物性に意識的になるな。ほら、ふだん脳ばかり使っているからね。そういや澁澤龍彦は、子供の頃「病気のデパート」(だったっけ)というくらい病弱だったそうだが。
 
夕方まで眠る。まだ微熱があるな。
忘れていたが、コロナウイルスに罹患した可能性もないとはいえない。充分元気だと思うのだが、軽症だとそういう人もいるらしいので。おとなしく部屋に引っ込んでいよう。
 
夜。
『白聖女と黒牧師』第8話まで観る。ただの「恋する聖女様とってもかわいい」アニメ、ってわけではないな(いや、それだけでもよかったんだけど)。第8話とか、ちょっとじんときたし。欲深い人間に利用された聖女・フレデリカ様の話はかなしかった。
 まあ、女性向け作品なのかな。ED も気に入っている。あんまり一気に観ず、ゆっくりと観た方がいいのかも知れないが。

老父の傘寿のお誕生会

祝日(憲法記念日)。晴。
 
(我々のいちばんの問題点は、「生きていない」ということだろう。生のリアリティが感じられなくて、どうして生きているといえるのか。恐ろしい時代である。「知」が生を殺すとは、既に散々いわれてきた陳腐な真実であるが、こんなことをあらためていわねばならないとは。象徴構造は、生のリアリティそのものに比べれば本当に貧しいものだ。
 善良さへの志向性。ってむずかしいことをいわなくても、ふつうに、素朴に善良に生きるということ。どうして我々は、マウンティングし、幼稚なナルシシズムを満たす、そんなことばかりしているのか。凡庸でいいのに。いわゆる素朴な無名の民衆、「地の塩」というものが、消滅した時代。インターネット、恐るべし、である。)
 
午前中、気分がよかったのでひさしぶりに一時間あまり散歩。陽射しが強くなってきたが、まだ快適に歩ける。世界がすばらしく美しく、いつもながらとてもカメラには収められない。

ゼニアオイ。


いつの間にか今年も用水に水が流れ始めた。

葦(アシ)。

ユウゲショウ、らしい。




矢車菊ヤグルマギク)。


レンゲ(蓮華)の咲く田んぼも少なくなったが。小学校への通学路とか、かつては一面にレンゲ田だったような記憶がある。


左下はシロツメクサ

アメリカフウロ、らしい。



わかりますかね、ジャガイモの花ですよ。



ムラサキカタバミ、らしい。

ニゲラ、らしい。


さくらんぼかな。




ガザニア、かな。

どこかのお宅の、すばらしい芍薬たち。




カタバミ


テッセン(鉄線)。
蝶やツバメが飛び回っている。
本当にいい日和で、歩いてよかった。こんな日はめったにない。
 


 
昼。
妹一家来訪。老父の「傘寿のお誕生会」をやる。ホールケーキを買ってきてくれて、「80」ってローソクも点けて、皆んなでハッピーバースディ・トゥ・ユーを歌う。妹夫婦、孫たち(わたしからすれば甥たち)、やさしーねー。老母が作った老父の「記念アルバム」を見て、笑い合う。さても、じい、長生きできてよかったねえ。
 
老母が夕食の用意をしている間、他の者たちは散歩。近所に大きな古墳が二つあるので、わたしが先導して一時間くらい歩く。なんか好評だったようで、よかったな。
 
夕食はいつものおばあちゃんの料理。もう(飲める人は)皆んなアルコールが入って、楽しくやる。上の甥っ子が学生なのはあと一年間だけだし、もうこんなことはないかも。平凡な幸せ、これでまったくいいのだと思う。これ以上、特に何もいらない。
 
夜。
風呂を出て一時間あまり眠る。

岐阜県美術館で「クロスアート4 ビロンギング」展 / 岩田慶治『道元との対話』

雨。
 
ある方がひたすら自分に呪いをかけて、ロジックによってみずからの不幸を無限に強化していくスパイラル過程に陥っていて見ていてつらい。親鸞がお好きだそうだが、弥陀の本願を信じまいらせてただひたすら「南無阿弥陀仏」の六字の名号を唱えさえすれば救われるという親鸞のいうところを実践されていないようなのは残念である。阿弥陀様は我々凡夫をかならず救ってくださるが、たとえ口先だけでもよい、「南無阿弥陀仏」を唱えるのは本人でなければどうしようもない。たぶんその方は頭がよすぎて、六字の名号の力をお信じになれないのだろうな。例えばわたしのようなバカなら、そうではないのだが。
 というのを、頭のよい現代人は理解しないだろうし、科学的・批判的思考の欠如、宗教への盲信であると非難さえするだろう。しかし、いくら頭のよい現代人にも、どうしようもない泥沼の不幸が訪れることはあるし、それが批判的思考で乗り切れないこともあり得るのだ。親鸞は、そんなことはとうに考え尽くしている。
 

もう牡丹は終わってしまった。これは一昨日撮ったもの。今度は芍薬が咲きそうである。
 
(幸福や不幸の「量」とは何か。我々は「自分の方がこれだけ不幸だ」なんてことをいったり考えたりすることがある。自分はなんて不幸なのか。しかし、それは「比べるものではありませんよ。比べられたくもありません」とお隣の天使様も、周(あまね)君にいっているとおりだ。「自分の方がこれだけ不幸だ」ごっこは、やりたくなる気持ちは強くわかるが、あまりに不毛だとわたしは思う。
 自分の「不幸」は、しかたがない。でも、自分が不幸だと思っている人間は、多くの場合、それを(あるいは無意識のうちに)他人と比較している。でもまあ、それもしかたがないといえば、しかたないのだが。我々は弱いからな。)
(それにしても、やはり現代資本主義的価値観は徹底して我々の中で解体されねばならないな。我々の「不幸感」において、現代資本主義的価値観はきわめて大きな役割を果たしている。しかしそれは解体されるどころか、日々強化されて已まないのだから、若い人たちを始め、特に凡人は救われない。)
 

 
昼飯に桜エビと生姜の炊き込みご飯、あと、旬のエンドウを使った献立。
 
雨あがる、曇。岐阜県美術館へ、「クロスアート4 ビロンギング -新しい居場所と手にしたもの-」展を観に行ってきた。一般1000円。

岐阜県出身の若手アーティストたちの作品展。松山智一、後藤映則、公花、山内祥太、横山奈美。特にいいたいことはないが、とにかく、いつものことながら、現代アートが、こんなことをしていて何の意味があるのか、時間と労力のムダではないかという、むずかしいところにあることを示していた。ほんと、たいへんだなあと思う。陳腐な言い草だが、がんばってねっていうしかない。
 所蔵品展も観る。最後に前田青邨川合玉堂日本画がいくらかあって、わたしは日本画のよし悪しがよくわからないのだが、川合玉堂がわたしごときにもわかりやすくて、おもしろかった。





 
ついでに、隣の岐阜県図書館に寄って、『新潮』誌5月号の、中沢さんと吉本ばななさんの対談を読む。中沢さんの新刊『精神の考古学』と、それから吉本隆明さんについて。『精神の考古学』については、ばななさんが、いまの若い人たちへのすばらしい贈り物、彼らがうらやましいみたいなことをいっていた。
 若い人たちは、脳みそいっぱいにつめこんだ概念、記号にがんじがらめになっていて、身動きがとれなくなっている。そこからできるだけ自由になること。『精神の考古学』は、そのために書かれたのだ。
 吉本さんについては、ずっと基準にしていた「大衆」ってのに、吉本さんはうらぎられてしまったみたいなことを中沢さんがちらっとおっしゃっていて、どういう意味かはっきりしたことはわからないけれど、妙に深く納得してしまった。わたしは、いまの日本の我々「無名の一般大衆」の心がひどいことになっているというのは常々思っていて、それと関係があるのか知らん、とか。
 
すぐ近くのミスタードーナツ バロー市橋ショップに寄る。ポン・デ・宇治抹茶 和三盆わらびもち+ブレンドコーヒー528円。
 図書館から借りてきた、岩田慶治道元との対話』(文庫版2000)読了。まずは道元をわたしに一気に近づけてくれて、ありがとうといいたい。徹底して主観的な道元の読解であり、まさにこうでなくては。著者独自の「柄」と「地」という二項対立を使ったりして道元を読み込み、著者と道元が渾然一体となっている。そんなすばらしい本だ。以前は『正法眼蔵』とかとても読む気がしなかったのだが、いまは(どーせ理解できないだろうけれど)読んでみてもいいかなと思っている。
 それにしても、よくこんな(文化人類)学者がいたもんである。生粋の東洋的精神。もう、皆んなかしこくなってしまったから、ほとんど誰も理解しまい。

 
夜。
去年10~12月のブログ本を読む。
 
『トモちゃんは女の子!』第9話まで観る。うん、思っていたよりずっと中身の詰まった作品だな。キャロルは天然の変人かと思ったら、みすずも読みまちがえていて、じつは真っ直ぐな女の子だった。雨降って地固まる。みすずとキャロルのやり取りは、見応えがあってちょっと感銘を受けてしまった。ここではトモちゃんは脇役でした。いい作品。