記号と現象

曇。

昨日某SNSを見ていて、それから既にフォローを外しているある有名知識人のタイムラインをひさしぶりに覗いてみた。また、別の、これもいまは読んでいない有名ブロガーのブログもついでに覗いてみた。異様な気持ち悪さを感じながら、いろいろ思った。日本人のかしこい人の文章は、何でこんなに気持ちが悪いのか。ま、「気持ちが悪い」というのはどうとでも取れる言葉で、また説明もむずかしい。こいつ、気に入らないのをただ disっているだけ、そっちの方が気持ち悪いわと思われるかも知れないし、あるいはそもそもオレはわたしはそんなことは感じないといわれる人がほとんどだろう。わたしもこれ以上明確化できない。だから何だであるな。

最近(日本の)ネットを見ていて強く思うこと。皆さんパズルを解く能力はすごく上がっていて、正直言ってわたしごときではついていけないことも少なくないのだが、自分で考える力はない。「自分で考える力が大事」といっている人も、同じく自分で考える力はない。わたしがここで「考える力」といっているのは、記号を調整する能力のことではない。わたしが「考える力がある」と思っている人は例えば吉本さんだが、いまや吉本さんは「何を言っているのかよくわからない人」(笑)と思われている。まあ、中沢さんでも、河合隼雄先生でも、井筒先生でもいいんだけれどね。記号の背後の現象を直接見ることができるかが、鍵だ。あるいは、記号と現象の区別がつくか。わたしが何をいっているのか、わけがわからないだろうなとも思うけれどね。

しかし、陳腐な話で申し訳ないが、いまや日本は何をやっても「先進国最低」ってのが当り前になってしまったな。何でなんだろ。まあ、「自分で考える力」も先進国最低ということはいえるのかも知れない。よく知らないが。

一般人の深い感情も、「先進国最低」なのかもな。深い感情が、ない。

世界は無限に多様な筈なのに、皆んな同じことばかり考えている。いまだと、PC(ポリティカル・コレクトネス)、アイデンティティ・ポリティクスの話ばかりだ。ネットのどこを見ても、フェミニズムと差別の問題。ま、わたしも人のことはいえないか笑。

それにしても、いまだ言語化されていない現象を言葉にしようと思ったら、わけのわからない文章になるに決まっているではないか。(本物の)詩がわけがわからないのは、当り前だ。すべてのわけがわからない文章が、書き手の頭の悪さを示しているとは限らない。それは読み手の能力次第なのだ。リアルな世界は、簡単に記号で覆えるとは限らないし、あなたたちが記号で覆えていると思っている「世界」も、それはたんに記号(あるいは意味)の集積にすぎなくて、世界そのものではない。

いや、記号も世界の一部ではあるんですけれどね。だから、秀才はまちがえるのだろうけどな。言語哲学者・井筒先生を読もーっと。

昼から、ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー418円。『武満徹著作集2』の続き。武満さん、ふだん家族と接するときはそうでもなかったらしいが、音楽も文章もじつにクソマジメな人だな。わたしもクソマジメなのだが、武満さんには到底及ばない笑。そんな武満さんが好きだ。吉田秀和さんはそういう、ユーモアのない武満の音楽は、すばらしいけれど疲れるというようなことをお書きになっていたが、結局吉田秀和さんには武満さんがわからなかったところがあると思う。まあ、そういう雲の上の高みの話はどうでもいいのであるが。わたしは武満さんのきびしくも静かな詩的文章が好きだ。武満さんの音楽は、その文章に似ている。あるいは、その音楽は文章と響き合っている。宇宙との交感 correspondence。そんな大仰な文字が、素直に当て嵌まってしまう。まさに、ひとつの世紀に何人というレヴェルの人だった。


帰りに三井山公園に寄って、散歩。







ここは鳥がたくさんいるな。あまり聞き慣れない囀りが聞かれるのだが、何だろう。ツバメも既に舞っている。

夜。
さくら荘のペットな彼女』第10話まで見る。

ジャック・デリダ『アーカイヴの病』

晴。

午前中、ごろごろ。
昼からもごろごろ。何もする気が起きない。

あまりに何もしたくなし、何を読みたくもないので、いっそデリダでも読んで見る。どれくらいぶりやねん。


図書館から借りてきた、ジャック・デリダ『アーカイヴの病』読了。これ、過去に読んでいるのだろうとブログ検索してみたら、読んでいないみたいだった。いずれにせよ、わたしなんぞが読んだってどうにもなるものではなし、やっぱりわけがわからなかったが、でもおもしろかったね。訳者解説を読んでも訳者もよくわかっていないのが明らかなので、笑える。まあ、フロイトが話題になっているのはわかるのだが、とりあえず「死の欲動」が問題になっているのだけれど、あいかわらずデリダはわざわざめっちゃわかりにくい言い回しで語っているし、それにところどころで極めて些末なテクスト解釈論議に花を咲かせてみたり、例の韜晦ぶりである。で、ところどころで「ユダヤ人科学」ということも話題になっていて、何やら、フロイト精神分析を「ユダヤ人科学」だとでも言ったのだろうか。わたしは無知なのだが、そうならそうとわかりやすく言ってくれたらよいのに、またまたデリダ風の味付け。イェルシャルミとか、知らねーし。最終的に、「アーカイヴ」って何だよ。フロイト精神分析)の資料庫かよ。ま、こういうのをわからないといけない、あるいはわかったふりをしないといけないかしこい人たちは大変だなあ。
 でも、何も読みたくないところに、こういう「詩」みたいなわけのわからない文章は元気が出た。もう、いまは哲学・社会学=パズル解きで、意味ばかりで疲れているわたし(いや、読んでいないけれどね)。ま、あれはあれで意味はあるのだろうけれどな。皆さんかしこすぎるぜ。
 文学も閉じているしな。かしこい人たちは下らないアニメでも見て、脳みそをぶっ壊しな。

 
マイケル・フリーデン『リベラリズムとは何か』を読み始める。

かげはら史帆『ベートーヴェンの愛弟子』

日曜日。雨。
ゼロの使い魔』の各期EDが頭の中で反芻されるという夢。脳みそ、アニメで汚染(?)されているなあ。『ゼロの使い魔』というところがわたしらしくてバカバカしい。
あと、死を感ずるような夢。何だろうな。

何かいまでも2020年みたいでまだ2021年が体に沁み付いていないのだが、もう四月なのだよなあ。

NML で音楽を聴く。■ラフマニノフの「楽興の時」 op.16 で、ピアノはイリーナ・ボグダノヴァ(NML)。よいな! これはどういうピアニストだ。

Rachmaninoff: Works for Piano

Rachmaninoff: Works for Piano

  • 発売日: 2021/03/19
  • メディア: MP3 ダウンロード
 
ウチの夏みかんマーマレードを作る。


図書館から借りてきた、かげはら史帆『ベートーヴェンの愛弟子』読了。副題「フェルディナント・リースの数奇なる運命」。これはおもしろかった。ベートーヴェンの弟子としてチェルニーは有名だが、リースという人はよく知らなかった。しかし、彼もそれなりに当代一流の音楽家として認められ、ピアニスト、作曲家として活躍したのだな。ベートーヴェンの弟子というだけでなくて、リースは後世忘れられたけれど、彼もまた彼の人生を精一杯生きたということで、なかなか読み応えがあった。本書を読了してみて、リースって人が結構好きになり、その早い晩年(最愛の娘を喪ったりもしている)が悲しいとも思った。人生は悲しい。
 リースの作品は忘れられたが、Naxos や CPO といった音楽好きにはよく知られたレーベルでその曲のある程度が聴けるようになっているらしい。NMLでも既に少なからぬ録音が聴ける。これが、現代のすばらしいところですね。
 なお、本書はフェルディナント・リースのおそらく世界最初の伝記ということだが、しっかりした、文章もリーダブルなもので、失礼なことだが、わたしは最初ドイツ人研究者か何かの翻訳ものだと勘ちがいしていた。いや、わたしのような古くさいおじさんには、日本人がこういうことをあっさり(?)やれるというのは、やはり驚きで、いまは世界と近いのだなと思った。時代は変わる。本書は市の図書館の新刊コーナーに置かれていたものを、何となく借りてきただけなのだが、図書館の力に感謝したい。

なお、本書にはベートーヴェンの時代からロマン派初期の西洋の音楽界の状況が活写されており、それをリーダブルな筆で読めるのはありがたいことである。特に、ベートーヴェンの神格化と「クラシック音楽」なる概念の誕生は、わたしのような素人にも興味深かった。しかし、そのあたりの本書の評価はまた別の人物のなすべきことであろう。

江口圭一『十五年戦争小史』

曇。
モノクロームな夢。仲間たち(誰か知らない)と名古屋で狭いところをくぐり抜けたり、複雑な建物を渡り歩いたりする。で、皆んなで岐阜まで歩こうとするが、中間地点の一宮までたどり着かないうちにへばって泣きそうになる。もうあきらめようかというところで目覚める。
あーよく寝た。毎日寝過ぎである。

スーパー。

睡眠の後始末に半日ほどかかるという、何のために生きているのか謎状態(笑)。


珈琲工房ひぐち北一色店。『十五年戦争小史』の続き。太平洋戦争始まる。当初は連合国側の準備ができていなかったために日本軍は太平洋の広範囲を一気に占領するが、日本はそれで己の力を過信してしまう。アメリカが日本の暗号を解読していたせいや、またその生産力が発揮されてくると、形勢はまたたく間に一気にアメリカ軍の圧倒的な優勢となる。日本はその事実を認めることができず、無謀で愚かな作戦の連続により、事態に拍車をかけることになる。また、他のアジア人に対する蔑視感情もあって、日本軍・日本人により非人道的な行為が繰り返される。まったく、これが日本人かというもので、読んでいてしんどかった。いまの日本人も、それから大して変わっていないのかも知れない。

江口圭一『十五年戦争小史』読了。明らかに「左」がかった歴史書ではあるので、これが唯一の歴史の描き方であるということはないだろう。例えば、本書にアメリカ軍による日本爆撃(民間人の組織的殺戮)の非人道性に関する言及はない。しかし、イデオロギーによって極端に歪められた歴史書ということもできまい。わたしも「左」がかっているせいかも知れないが、本書の記述に違和感は少なかった。若い人たちが読んで、デメリットよりはメリットの大きい本ではないか。構成的にも、満州事変から太平洋戦争の終わりまでが一貫して記述されてあるというのは、よいと思う。わたしとしても、得るところが大きかった。もし若い人たちにアドバイスのようなことをするとすれば、本書のような一般向け歴史書とともに、戦後文学を合わせ読むといいと思う。というわたしもそれはまだ不十分だから、これからも戦後文学を努めて読んでいきたい。

十五年戦争小史 (ちくま学芸文庫)

十五年戦争小史 (ちくま学芸文庫)

本書を読んでも思うのは、国家というものはそれ独自の論理と惰性をもつということだ。そしてそれは、必ずしも国民の安寧・幸福と両立するとは限らない。

夜。
坂本龍一「async」を聴く。

async

async

  • アーティスト:坂本龍一
  • 発売日: 2017/03/29
  • メディア: CD
 
NML で音楽を聴く。■ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番 op.18 で、ピアノはタマーシュ・ヴァーシャリ、指揮はユーリ・アーロノヴィチ、ロンドン交響楽団NMLCD)。名演。■シューベルトの「さすらい人幻想曲」 D760 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。何度聴いたかわからない録音。
Wanderer Fantasy

Wanderer Fantasy

こともなし

春霞なのか、曇ってるっぽい感じ。

母診察。

朝も寝て昼も寝て夜も寝るわたし。ぐーぐー。


井筒俊彦『東洋哲学の構造』から「2 禅仏教における自己の構造」を読む。禅というものを、基本的に西洋哲学の用語を用いてここまで明晰に、わかりやすく説いた文章を他に知らない。禅について基本的なことが知りたかったら、これを読めばわかるだろう。しかし、この文章をおおよそ理解すれば、それだけではダメなこともまたすぐにわかるにちがいない。禅は、頭で理解したってしようがないのである。いや、仏教を始めとした東洋思想は、すべてそうであるといえる。「理解」しただけではどうしようもないし、それだけではじつは理解したことにならないのだ。
 とかわたしはエラソーなことを言っているが、まだまだですね。たぶん、わたしという牛は、すべてが通り過ぎずにまだしっぽが残っているのだろうと思う。しっぽっぽ。

 
日没前、散歩。

ウチのハナズオウ



ナズナ






レンゲ。


もう桜は終わりだな。あっという間だ。

夜。
さくら荘のペットな彼女』第6話まで見る。

上間陽子『海をあげる』

晴。少し霞んでいるよう。

スーパー。

昼寝。


梶谷先生の本日付のブログエントリー「自然主義のソフトランディングのために―地動説から監視社会まで―」を読んだ。わたしのような不勉強な者にはとてもむずかしいが、むずかしいにしては著者の頭の明晰さにより、ちょっとはわかる。ダーウィニズムに代表される自然主義パースペクティブ=「理系的な立場」(とは先生は書いておられないが)と、リバタリアン的な自由意志論に代表される「文系的」な立場の対立を考え、現在、前者により後者が劣勢に立たされているという認識が語られている。わたしの粗雑な頭で暴力的に要約すれば、文系的な立場が立脚する「自由意志」が、科学の「因果的決定論」に脅かされている、ということかな。ゆえに、科学(ここではピンカーが代表している)がPC(ポリティカル・コレクトネス)などを重視する「文系的な立場」の基盤を掘り崩してしまう。そして、「自然主義」は社会学的には功利主義と結びつきやすいが、監視テクノロジーと結び付いた功利主義は、いま一部で実現されつつある「幸福な監視社会」(≒中国)を普遍化してしまう。それでよいのか? とでもいうことか知らん。
 先生は明らかに、「それはよろしくない」という立場ですね。だからそこで、「自然主義のソフトランディング」ということを考える。「理系的」な自然主義を、文系的な発想でマイルドにしていこうということかな。つまり、やっぱり「自由意志」はある程度救ってやらねばならない。そこでヒントとされているのがスピノザだが、わたしはそれは勉強不足で全然わからない。(ここがキモだろう、って?)
 わたしはバカな大衆なので、以上のようなむずかしいことはどうでもいいといえばどうでもいい。でも一方で、「幸福な監視社会」が日本でも、世界でも実現されてしまえば、大衆であろうが何であろうが逃げられないのだから、どうでもいいというのは愚かである。さてさて、わたしは「自由意志」について、先日ちょっとだけこのブログに書いた。

「自由意志」という言い方そのものが、既に筋が悪いのではないかな。意志は進化を突き動かす、盲目的な力だ。自由とはむしろ対立する。意志ってのはふつう「よい」ものとされているが、そうなのかねえ。

http://obelisk2.hatenablog.com/entry/2021/03/28/101241

わたしは、「意志」よりも「自由」が気になる。「自由」というものは確かに存在するが、まだわたしの満足するような議論は、かしこい文系学者たちの間でもなされていないように思える。でも、自分でもうまく言語化できない。わたしの「自由」のイメージは、例えばモーツァルトの音楽みたいなものだ。それ以上の説明ができないのであるが。
 ま、わたしごときがこんなことを考えても仕方がないのだけれど。

上間陽子『海をあげる』読了。エッセイ集ではないね。ノンフィクションではあるが、物語、私小説といってもいい。全篇、深い感情が底に流れている。感傷的すぎると受け取る人もいるだろうが、わたしはそうは思わない。ただ、本書のラストはちょっとやりすぎな気もした。わたしの感受性が追いついていないのかも知れないが、本書の中では稀に作り物っぽい感じがする。それ以外は感銘を受けた。現代においてはほとんど書き留められない、(繰り返すけれど)深い感情がここにある。こうした感性が、われわれには必要なのだ。
 著者は沖縄で性暴力についての聞き書きの仕事をしておられる方らしい。社会学者? 本書の文章はウェブの連載で知り、既に読んだものもいくらかあった。著者の仕事は、もう少し追いかけてみたい。

海をあげる (単行本)

海をあげる (単行本)

 
夜。
録画しておいた、BS1スペシャル「映像記録 東日本大震災 発災からの3日間」を見る。メンタルの弱い人は見ない方がよいかも知れない。東日本大震災の、地震(ある場所では6分間も続いたのだ)と津波の映像をまとめて見たのは初めて。言葉を失うという他ない。
 あの日自分がどうしていたのか、もうほとんど忘れている。岐阜でも小さな揺れはあったらしいが、わたしは気づかなかった。仕事場に生徒が来て、大地震があったことを知り、ネットで津波の映像を見ていた記憶がある。この「映像記録」では原発事故については詳しく描かれないが、あの日家に帰ってからずっとテレビを見ていて、原発のことばかり気になっていたのではなかったか。わたしはネットも見ていて、一部(「原子力資料情報室」だ)でメルトダウンの情報が流れていたのだが、家族はテレビを見ていてそれを信じなかった*1。あれはどの時点のことだったか、もう忘れている。

*1:ブログを見てみると、3月12日の時点で「原発の爆発にはやきもきしたが、メルトダウンしていないことが判って、本当にホッとした」と書いている。たぶんテレビの政府発表を信じて、メルトダウンという正しい情報をわたしは廃棄してしまったのだ。だから、メルトダウンという事実を確信したのは、もっと後のことだったわけだ。ひどいものである。

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番 K.488 で、ピアノはクリフォード・カーゾン、指揮はイシュトヴァン・ケルテス、ロンドン交響楽団NML)。

Piano Concertos 20 23 24 26 27: Decca Legends

Piano Concertos 20 23 24 26 27: Decca Legends

ベートーヴェン交響曲第六番 op.68 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティック(NMLCD)。


論理は誰でも持ちうるひとつの暴力でもある。ゆえに、弱者の武器にもなるのだ。

絶対に正しいことが世界を覆っていくとき、批判的知性はどうすべきか。Aをいわねば殺すといわれて、Aをいわないことは可能か。もちろん、これには一般的な解はない。個々の場における実践があるだけである。対応をひとつでも誤ったら、それだけで死亡だ。

しかし、ほんとに自由と平等は相性が悪いな。

現実には個物はすべてちがうがゆえに完全な「平等」というのはあり得ない。しかし、種(集合といってもいい)における要素たちの「平等」ということは素直な考え方で、わたしもいまのところ特に誤っているとは思えない。そこの矛盾だな、問題は(例えば「個性は大事だけど、皆んな平等」っていう矛盾。これを刷り込まれている若い人たちに、この矛盾で悩んでいる人も少なくないだろう)。これももちろん、抽象的に考えすぎてはいけないのだが。というか、この一般化された論理は端的に矛盾しているがゆえに、解体されねばならない。

差別は言葉による区別に、優劣意識が加わったものとひとまず考えることができる。これもまた、言葉の解体の問題だ。存在しないカテゴリーを解体すること。実念論批判。いや、そちらを強調しすぎてはいけないだろう。むしろ優劣意識に光を当てるべきか。これは、むしろ感情の問題なのではないか。「むかつく」「傷つく」「腹が立つ」。そして、個性、アイデンティティ。なるほど、そこか。わたしは個性やアイデンティティは解体されるべきとはっきり考えている(何度もいうけれど、世界=わたしだ)。そこが完全に「古くさく、時代遅れ」なのだ。ははは。笑うぜ。これが最先端だ! もちろん、差別を廃棄していくのには何の問題もない。わたしだって差別されている側だしな。しかし、わたしの戦い方は単純なものじゃない。


楽しい楽しいお・や・じ・狩・り。あいつらクズだ! 殺しちまえ! みんなでやろうぜ!

ま、いずれにせよ、クズのおっさん(わたしも含む)やジジイどもはそのうちこの世界から退場するよ。次の世代はすべての人間は平等だと公的に刷り込まれることになるし、それはそれでよい。差別の構造もまた解体されねばならない。正義は世界を覆うだろう。


結局、次のようなところに帰っていくのかな。差別は確かによくない。しかし、解体されるべきひとつの差別が解体されても、次々と新しい差別が登場することは必至だし、誰であろうと己のすべての差別意識を廃棄することはできない。だから、あんまり偉そうなことは言いなさんな、と。

金柑を枝からちぎって食っていたら、手の甲にテントウムシが留まった。

好天。
昼からまた扶桑のイオンモールへ。途中、江南側の木曽川堤の桜がすばらしかった。車も少なく、ゆっくり運転しながら美しい世界を堪能した。
ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー418円。このところ毎日のようにおやつを食べているので、さすがに低カロリーのものを笑。『武満徹著作集2』を読み始める。武満さんは言葉は少ないが、あらゆることを考え尽くしていて、心に残る言葉がいろいろある。特に、西洋音楽をやる日本人作曲家として、「日本と西洋」については繰り返し粘り強く考え抜かれている。本書(「音楽の余白から」)には、「西洋という巨大な鏡は砕け散った」という言葉が何回も出てくる。これはどういうことか。つまりこの鏡に我々はみずからを映し、明治以降自己認識してきた、その鏡が砕けたということだろうとわたしは思うが、ではさて。鏡はもはやないし、あったとしても、我々はもはや鏡に映すべき「日本」をもっていない。我々は己を失うほど深く西洋化しつつあり、「東洋」や「日本」は存在しないフィクションと、かなりの程度、化している。そして、それは問題があるどころか、我々はみずからのガラパゴスぶりを嘲笑するほどだ。いや、感知できない無意識の奥の奥のレヴェルでは、まだ西洋化し切ってはいないのであるが。
 別のこと。武満さんは村上華岳が特別お好きなようで、いろいろ啓蒙された。華岳は、まとめて一度見てみたいものである。華岳は、自分の絵について「飽くまで凡人の努力の現れである」(p.56)といっているそうだ。こんなことを言っている画家を、見ないわけにはいかないではないか。
 また別のこと。瀧口修造。わたしは瀧口についてほとんど何も知らないが、ずっと前から気になっていた。瀧口は仮には詩人、芸術家であったとしても、何者でもない者として生きたと予感している。ひとつの夢、ひとつの謎だったようにも、予感する。さて、いま瀧口修造に触れるとすれば、どうしたものかね。

武満徹著作集〈2〉

武満徹著作集〈2〉

  • 作者:武満 徹
  • 発売日: 2000/04/01
  • メディア: 単行本

下らんことを書こう。アニメを見るようになってアニソンも好きになったのだが、アニソンってのは映像の効果が強いのだよなあ。SAOはどのOP、EDもよくできているのだけれど、曲だけ独立してすばらしいってのは、やっぱり藍井エイルの「IGNITE」(第2期OP)くらいかな。アリシゼーションの LiSA「ADAMAS」は、映像との相乗効果でよく You Tube を見ています笑。キリトとユージオの剣の awesome synchronization! って英語コメントみたいに言いたいね。最後のところで、二人が拳で複雑に挨拶(?)するのも、カーッコいいんだなあ。


そうだな、アニメの「ソードアート・オンライン(SAO)」シリーズ、今までの分(SAO、SAO2、オーディナル・スケール、アリシゼーション、アリシゼーション War of Underworld)はすべて見たので、ついでにアニメ初心者がちょっとだけ語っておくか(ネタバレ注意)。

第1期は、ゲーム(フルダイブ型MMORPG)の中で死ぬとそれが現実の死になるという設定の世界で、正直言って最初は「安易だなあ」と思っていました。でも、エンタメとしてのストーリー展開のうまさに引き摺られて見ているうち、ハマりましたね。殺伐とした世界の中、主人公のキリト君とヒロインのアスナカップルが出来ていくのに惹き込まれた。で、SAO全体にいえるのが、キリトとアスナ画像)を中心に、魅力的なキャラクターがたくさん登場して、シリーズを通して活躍していくこと。このアニメはどれも世界設定はかなり苦しいのだけれど、魅力的なキャラクターたちをどう登場させ、活躍させるかというのが主眼になっているように思える。SAO2で登場するクールなシノン、アリシゼーションで登場する親友ユージオと騎士アリスなどは、特に魅力的ですね。

それから、ここまで見てくると避けられないのが「正妻戦争」だが、これはさすがに書くのが恥ずかしい笑。しかしキリト君には最初からアスナがいるんだから、「正妻戦争」とかおかしいだろ、ははは。第1期ではゲームの中でとはいえ結婚していたし、アリシゼーションでは現実世界の方でキリト君がほとんどプロポーズしてるやん。アニメの常としてキリト君はモテモテなわけだが、これは誰が悪いんだ、原作者か。まあシノンアスナとも仲がよくて二人を認めているのだが、アリスとかどうすんだよ。原作最新巻でもアスナとアリスは冷戦状態らしいんだが。

SAOで困る(?)のは、とにかくここまで長いこと。TV版全部で、120話以上ある(+劇場版オーディナル・スケール)。まあ、楽しみがたくさんあるということでもあるが。わたしがいちばん好きなのはSAO2かな。SAOは全体的にアニメとしては重いが、SAO2はわりと気楽に見られるし、いろんなキャラクターがそれぞれ存分に活躍するので。アリシゼーション、アリシゼーションWoUは、重いんだよなあ。それから、絵はどれもすごくきれいで、わたしがよく書いているとおり、後期おっさんにはちょっと刺激が強すぎるところもある。とにかく、今年公開予定の劇場版(プログレッシブ)も楽しみ(たぶんTSUTAYAに出るまで待つけれど笑)。

おしまい。お粗末様でしたー。