こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十八番 K.504 で、指揮はベンジャミン・ブリテン、イギリス室内管弦楽団NMLCD)。■レスピーギ交響詩「ローマの祭」で、指揮は小澤征爾ボストン交響楽団NMLCD)。曲は下らないのだが、さすが小澤征爾って感じだな。これぞ才能 gift というものだ。

NML のサーバーは時々不安定になるなあ。

アンドレ・ジョリヴェ(1905-1974)の「狂詩的組曲」で、ヴァイオリンは河野彩(NML)。これは志の高い音楽だな。

 
肉屋。

おやつにアップルパイ。

曇。散歩。

ウチの柿の木が芽吹いてきた。


ウチの桜2枚。散り始めている。

毎年撮る近所の桜。

黄砂でぼやけている。





散歩はよいのだけれど、花粉症で目がかゆい。


日本でも本格的に言葉の専制の時代が始まったのを実感するな。ついに完全な西洋化の到来か。ま、それもまた仕方のないことかも知れない。東洋の曖昧さは、本質的に「弱い」。論理というものは、有無を言わせない「強さ」がある。普遍的な幾何学的論理はすべてを呑み込み、我々を雁字搦めに縛るだろう。わたしはまだ諦めていないけれど、正直言ってわたしの力くらいではどうしようもないことは予感している。いやいや、わかってたことじゃないか、だらしなく、下らなく行こうぜ、俺たちクズはさ。

さくら荘のペットな彼女』第3話まで見る。空太の声、SAOのキリト君だから何か変な感じ。

こともなし

晴。今日は五月中旬の陽気になるらしい。

スーパー。
ウチの桜が満開。

okatakeさんのブログの本日付のエントリーで紹介されている、多田茂治石原吉郎「昭和」の旅』がおもしろそうだ。多田茂治という人はまったく知らないし、石原吉郎は高名な詩人だけれども、ほとんど読んだことはない筈である。…と書いてブログを探してみたら、『サンチョ・パンサの帰郷』は図書館から借りて二度読んでいるし、文庫本の『石原吉郎セレクション』は購入して既読。いや、エーカゲンな読書だなあ。とにかく、この本は読んでみよう。県図書館に架蔵されていることは確認した。古書価はひどく安いのだが、まあとりあえず借りてみるかな。

石原吉郎「昭和」の旅

石原吉郎「昭和」の旅

 
テレビを見ていてわたしが人権的に問題のある発言をしたら、老母がいまは女性の顔がかわいいというのもいけないのだといった。いわゆるルッキズムというやつで、PC(ポリティカル・コレクトネス)の怒濤の普及を感じる。で、わたしは「アニメの女の子がかわいいというのもアカンの?」といったのだが、とにかくむずかしい時代になったね。もちろん、イケメンの男の子というのもいけないのだろうな。ロマンスグレーのオジサマというのはどうなんだろ。女の子が女の子をかわいいというのとか、男の子が男の子をかわいいというのもダメかな。さてはや、わたしのような古くさくてバカなおっさんにはむずかしすぎるぜ。

しかし、こんな時代に恋とかできるのかね笑。ま、恋は顔でするものではないか。どうでもいいけれど。
そういや浅田さんは、「(心が)傷つかないコミュニケーションは無意味だ」と仰っていたな。いまは、コミュニケーションはできればない方がよいという時代になってきているのだな。敢て他人とコミュニケーションを取るならば、できるだけ相手の心を傷つけないように配慮するという義務が課せられるようになってきている。

こんな時代を生きるようになるとは。SFみたいだ。


イオンモール各務原

僕は大昔仲のよかった女の子のことをかわいいと思っていたのだが、そういうのもごめんなさいというものなのかな。好きな男性にきれいに見られたいという女性の気持ちも、ダメなんだろうか。なーんか、時代遅れのおっさんはかなしいな。

夜。
NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏チェロ組曲第一番 BWV1007 で、チェロはアシエル・ポロ(NML)。

Cello Suites

Cello Suites

ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はヴェーグ四重奏団(NMLCD)。■フランクのヴァイオリン・ソナタで、演奏はイラリオノヴァ・タバコヴァ・デュオ(NML)。
Franck: Violin & Piano Works (Live)

Franck: Violin & Piano Works (Live)

  • 発売日: 2021/03/12
  • メディア: MP3 ダウンロード
心が死んでいたので、名曲ばかり聴いた。

■バッハのトッカータ ホ短調 BWV914 で、ピアノはローラン・カバッソNML)。なかなかない、よい演奏。トッカータはバッハの若い頃の作曲に係るが、深い感情が秘められていて、感銘なしには聴けない。

Bach: Complete Toccatas

Bach: Complete Toccatas

  • 発売日: 2021/03/12
  • メディア: MP3 ダウンロード

こともなし

日曜日。雨。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十九番 K.543 で、指揮はベンジャミン・ブリテン、イギリス室内管弦楽団NMLCD)。

「自由意志」という言い方そのものが、既に筋が悪いのではないかな。意志は進化を突き動かす、盲目的な力だ。自由とはむしろ対立する。意志ってのはふつう「よい」ものとされているが、そうなのかねえ。

妹一家来訪。上の甥っ子は大学生に、下の甥っ子は高校生になった。下の甥っ子は反抗期で母親に「ウザい」「うるせえ」とかいっているらしいが、なになに、いい子なもんだ。上の甥っ子はもう落ち着いて、大人になってきたなあという感じ。あいかわらず、楽しくて幸せな家族だ。家族っていいものだなあと思う。
昼食は珈琲工房ひぐち北一色店にて。「ひさしぶりに皆んなでお越しですね」といわれた。そうだなあ。
わたしが和菓子餅信へ行って、よくばり大福とお土産を買ってくる。ティータイム。
妹一家帰る。


妹一家を見ていると、幸せってことをつくづく考えさせられる。僕の高校のときの仲間はみな超一流大学に入り、一流企業の社員、国家官僚、海外での研究者、まあそんなコースを進んでいったが、妹一家ほど幸せな家庭を築けたのだろうか、とか。自分のことも思う。彼らの中ではわたしはドロップアウトしてしまったし、確かに苦痛の大きい生をこれまで歩んできたけれど、さて、そんなに不幸なそれだったかというと、さあね、どうだろう。ある意味ではだが、随分と恵まれていたのではないか?
 しかし、若い人たちと接するのはやはりいいものだな。いまの引きこもった生活体験も貴重で、充分に利用したいと思うが、若い人に会うというのでなくとも、そのうち外と接触しないといけないだろうな。ま、それもなりゆき次第だが。

ついでだから、引きこもるということについてもちょっと書いておこう。引きこもるなんて簡単だと思うでしょう? しかし、事実はその反対で、じつにむずかしいことなのである。引きこもると、「自分と向き合うことを、どうするか」という大問題がある。自分と向き合うのは、はっきりいって危険だ。たいていは、自分の無価値がつくづくわかってしまうから。だから、一般的にいうなら、引きこもるのは、やめられるならやめた方がよいし、引きこもっても自分に向き合うのはやめた方がよい。しかし、危険と向き合わざるを得なくなる人もいるわけで、そういう人に一般的なアドバイスはない。そういう人の幸運を心から祈っています。医者にかかった方がよくなった場合は、そうすべきです、いまはほんとにむずかしい時代なので。人間は簡単に「狂い」ます。
 しかし、引きこもる人はこれからどんどん増えていくだろうな。既に、コロナ禍でだいぶそうなっているところがある。

SAOアリシゼーション(仮に第3期とする)とアリシゼーションWoU(仮に第4期)を見ていたこのところの日記を読んでみたら、(わたしには)ちょっと異常な感受性の領域を使っていますね。後期おっさんには刺激が強すぎますな。若い人たちはこんなのをふつうに見ているのだろうから、恐ろしいというか。これじゃあモダンの領域がピンとこないのも当たり前だろうな。そういや今日、甥っ子たちはエヴァを見ていないといっていたが、つまりいまの10代にはエヴァはおっさんとかおばさんの見るアニメということだった。じゃあ、エヴァ以前の俺たちなんて何なんだよ笑。わたしはSAO第3期と第4期の全4クール、47話を一週間で見たのだが、まあちょっと荒行にも程があったな。addiction で、やりすぎ。
 ゲームも強く addictive である。甥っ子たちは時間があるとずっとスマホゲームをやっているのだが、彼らにはそれが当たり前のことなのだ。それだけに没頭しているわけではなく、しばしばさっと中断して、大人の会話に加わったり、またゲームに戻ったりで、もう完全に日常なのだな。でも、家ではゲームばかりのときもあるようで、仲間たちと朝まで徹夜でオンラインゲームをしてから学校へ行くとか、それではやはり勉強はできない。そういうのは、家庭にも依ると思うけれど。わたしはゲームはもう面倒でやれないのだが、ネットを見ていても、いまは親の方もゲームをやるのが当たり前の時代になっている。親子でゲームでコミュニケーション。そういう時代が来るだろうとは確信していたけれど、実際になってみると、不思議なものだ。

「中毒化」させる技術 / 斎藤幸平『人新世の「資本論」』

晴。

いまの(脳科学のレヴェルで)「中毒化 addict」させる技術の発展は、わたしのような時代遅れの人間にはとても恐ろしい。「中毒化」させる技術への対抗は、次世代の必須のスキルになるだろう。たぶん、いまの若い人たちは既にある程度そのようなスキルと慣習をもっているようにも思われるけれど、誰もが誰もというわけにはいかない筈だし、そのようなスキルそのものを完璧にすることは誰にとっても非常にむずかしい。一般に、自力で「洗脳」を解くことは不可能であるといわれる。
 インターネットそのものが、「中毒化」させる技術の実践フィールドになっている。我々は、ますますインターネットそのものに addict させられる。

何か「快楽中枢」みたいなのがあるとして、それを直接操作されているような感じがするのだが。
カタルシス。物語。映像。音楽。
obelisk2.hatenablog.com
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斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読み始める。わたしは基本的にベストセラーは何年か遅れて読む習性なのだが(そうすると、大抵は読む必要がなくなるのであるが笑)、さすがに捨て置けなくなって購入した。若いのに骨太な思想家だな。第三章まで読んだ。とりあえず、地球環境問題と絡めて、資本主義ではダメだというのはわかった。説得力はある。ただ、これだけならよくあるお話なので、では実際にどうすればよいのかという、残りの部分がとても楽しみである。

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

 
第六章を読書中。「コモン」の発想はよい。しかし、資本主義と現代国家はきわめて強い結びつきがある。それゆえ、資本主義を廃棄しようとするなら国家を解体せねばならぬ筈だが、著者はそれをどう解決するのか…。

斎藤幸平『人新世の「資本論」』読了。本書は国家をまさに肯定して終わる。

本書では、<コモン>、つまり、私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理こそが、コミュニズムの基盤になると唱えてきた。だが、それは、国家の力を拒絶することを意味しない。むしろ、インフラ整備や産業転換の必要性を考えれば、国家という解決手段を拒否することは愚かでさえある。国家を拒否するアナーキズムは、気候危機に対処できない。だが、国家に頼りすぎることは、気候毛沢東主義に陥る危険性を孕んでいる。だからこそ、コミュニズムが唯一の選択肢なのである。(p.355)

いかにもうまくまとめたようだが、「国家は必要、でも頼りすぎてはいけない」というのは、端的にいって矛盾ではないか。矛盾がいけないというわけではないが、これを実行できるのか。わたしは、極めてむずかしいと思う。その境目が微妙すぎるからだ。

そもそも本書には国家についての考察がほとんどない。仮に、国家としてのコミュニズムが可能であるとしよう。では、そこへどうやってもっていったらよいのであるか。アソシエーション(協同組合)を増やしていけば、漸進的に国家としてのコミュニズムに世界が自然と到達するとでもいうのか。ちなみに、本書に暴力革命の文字はない。

本書の読後感。資本主義はダメ→コミュニズムは無理→死亡。チーン、南無阿弥陀仏。いや、それはあまりにも敗北主義的だって? それは認める。でも、絶望的なのは前からだから、わたしだってまだ諦めたわけではないし、幸い、著者はわたしなどとは比較にならずすばらしく物知りで、頭がよいのだ。

わたしはというと、結局制度よりもまず人を変えるしかないと思う。そして、人を変えることはまず不可能だ。そこをどうするか、だ、問題は。希望は「地球環境問題ネイティブ」の若い人たちだ。我々は、彼ら彼女らを抑圧して潰すのではなく、彼ら彼女らに道を譲り、助けていくべきである。そしてその場を作り、あとはさっさと退場していくということ。

上間陽子『海をあげる』を読み始める。単行本のエッセイ集を買ったのは、どのくらいぶりだろうか。ちょっと記憶にない。

こともなし

晴。

スーパー。


バイデン大統領の記者会見をテレビニュースで見たが、中国との対立を「民主主義と専制主義の闘いだ」とはっきり言った。わたしが大統領であるかぎり、決して負けないとも。特に意外な発言とは思われなかったのか、これが抜け落ちているメディアもあるが、わかっていないな。イデオロギー的対立ということである。「民主主義と専制主義の闘い」は、今世紀(前半)の世界を動かす基本的な構図になるだろう。そして前者が勝つかどうかは、決して自明ではない。既にクローズアップされている地球環境問題においても、民主主義の方が有効でない可能性も充分にある。それでも国際協調主義に基づいた民主主義を選ぶべきだというのが、いまのところは「もっとも満足すべき正義」なのだろうな。
 しかし、民主主義も「管理化」されざるを得なくなるのがこれからの時代だ。民主主義と専制主義は、事実としては互いに接近していくことになるだろう。「管理」は現在でも重要な概念であり、自由の領域はさらに縮減されていくことになる。特に個人の内面すら様々な手法により管理されていくことになるし、既にそれは日々現実化している。

ディストピアが到来しつつあるが、それはユートピアと認識されつつやってくる。まさにSF的世界だ。我々は管理された方がラクなのだ。そういえば、「奴隷状態における幸福」という序文のついたポルノグラフィが、かつてあったっけ。


昼寝。

夕方、70分ほど散歩。世界が美しすぎて写真を撮ろうという気があまりなかったのだけれど、帰宅して見てみたらいっぱい撮ってた。

ウチの庭。

ウチの桜。


連翹。

飛行機雲。













連翹としだれ桜とオービス



出かける前にある論文を読んでいたので、それで「自分の性規範は完全に時代遅れだな」とか思いながらとぼとぼ歩いていた。性幻想は完全に社会的なもので、生物学的基礎をまったくもたないのだろうか、とか。いずれにせよ、そんなことはどうでもいいのだが。ジェンダー的な男女の区別がなくなろうが、人間はそれにそれなりに慣れてしまうのであろうな。

夜。
ソードアート・オンライン アリシゼーション War of Underworld』最終話まで見る。また終わっていない…。

矢川澄子ベスト・エッセイ『妹たちへ』

曇。

対立物の一致(coincidentia oppositorum)。極大と極小が一致すること。我々(の意識)は宇宙全体にすら膨らむことができるが、その一方で今日のご飯のことも考えねばならない。逆に、我々は今日のご飯のことだけ考えて生きるということもできない。人はパンのことのみ考えて生きることはできないという言葉もあるな。

極大を一点に封じ込めるというのは…。
中心と周縁。至るところに中心がある。

にゃお。

しょぼしょぼとした雨。
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。江口圭一『十五年戦争小史』の続き。第10章の二二六事件から、第16章の太平洋戦争直前まで読む。満州事変は関東軍の暴走であったが、日中戦争は軍は不拡大方針だった(石原莞爾がその代表だったというのが興味深い)のに対し、政府主導で進められていくというのは知らなかった。政府も軍も、中国は一撃で屈すると考えていたというのが愚かである。また、日本が太平洋戦争に突き進んでいくのには、理由として、破竹の勢いで勝ち続けていくドイツ軍にほとんど焦りを感じていた側面があるというのも知らなかった。本書は「小史」にはちがいないが、一般人が読むには充分すぎるほど詳しく、また一般向けにレヴェルを落としていない。かなり歯ごたえがある。

十五年戦争小史 (ちくま学芸文庫)

十五年戦争小史 (ちくま学芸文庫)

 
矢川澄子ベスト・エッセイ『妹たちへ』読了。「永遠の少女」はわからないな。かつてもわからなかった気がする。少女趣味というと、叱られるのだろうか。「永遠の少女」は、文明の産物であろう。 
夜。
ソードアート・オンライン アリシゼーション War of Underworld』第18話まで見る。

こともなし

晴。

散髪。さっぱりした。
いい天気だな。

井筒先生のエラノス講演集落掌。結局買ってしまった笑。

わたしには高価なものなのだけれど、それだけの価値がある本。まあ、全然お金を使わないようになってしまっているので、いいんだよね。


昼から肉屋。
図書館。市民公園、新境川堤あたりを散歩。























桜はもうかなり咲いていた。あと四、五日で満開なくらい。

矢川澄子を読む。

夜。
いつものごとくブログ「本はねころんで」を拝読していたところ、濱田滋郎さんの亡くなられたことを知った。わたしは濱田さんのことはほとんど知らないが、ただ大昔まだ『レコード芸術』誌を読んでいた頃、この人はちょっとちがうなという感じでその言葉を信頼していたのを思い出す。「本はねころんで」さんは「中南米音楽の権威」と書いておられるが、わたしの知っているところではスペイン音楽に大変お詳しいという印象であった。「印象」というくらいだから、いいかげんなものである。ただ、わたしはいまに至るまでスペイン音楽はあまり知らず、当時雑誌で気に留めていた発言は、極ふつう(?)の、ベートーヴェンとかモーツァルトとか、ショパンとかブラームスとかのそれであった。偉ぶるところのまったくない文章で、貶すことはまずされず、基本的に肯定的な文章ばかりであったと覚えている。記憶のよい若い頃に読んだものだからいまでもいろいろ思い出されるのであって、雑誌のショパン特集みたいな企画でマイナーなショパン室内楽を取り上げておられたり、ピアニストの内田光子さんへのインタビューで昔の音のよくない頃の大家の録音の話で盛り上がったり、これもピアニストのゲルバーへのインタビューで、ブラームスの(ピアノ協奏曲)第一番、第二番でどっちが好きか、いややっぱり一番だよねとか、そんなのがいまでも頭に浮かんでくる。それから、アラウ最晩年のモーツァルト録音の一枚に、めずらしく否定的なことを書かれたりとか。いや、これらの記憶が、どこまで正しいのか自信がないけれども。
 86歳で亡くなられたというから、わたしの読んでいた頃、濱田さんはまだ50代か、60代の始めくらいだったのかな。随分前のことだ。合掌。

そうそう、思い出した、これは書いておこう。わたしはシューマンのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.105 が好きだが、これはクレーメルアルゲリッチの録音で刷り込まれたからである。このディスクは濱田滋郎さんの印象的な文章で知ったのだった。その文章の細部がちょっと思い出せないのだが、確か、録音を聴く前にクレーメルアルゲリッチの名前を見てハッとしたとかいうようなものだった。ちなみに、この演奏はシャープかつファンタジックで、まさにこの曲にふさわしい。

 

ソードアート・オンライン アリシゼーション War of Underworld』第6話まで見る。