こともなし

昨日は旅行から帰って早く寝たので、深夜起床。
明け方にかけて頑張って日記を書く。

晴。

午前中、少し寝る。
浅く短い夢に、小中学校でわりと仲のよかった S君が出てきた。夢自体は下らないものだったが、どうして忘れていた S君だったのか。高校卒業後に某所で偶然に出会ったことがある。一人っ子で、片親を早く亡くされて、どこか関西だったかの方へ行かれたとのちに人から聞いた。S君宅はウチからはわりと近くて、いまも近くを散歩することがあるが、とてもその前を通ることができない。立派な門のある大きな百姓家屋であった。いまも残っているとして、たぶん誰も住んでいないのであろう。それを確かめる気も起きない。

図書館。この時間だと利用者は基本的にお年寄りだな。あと、絵本の読み聞かせがあるようで、若い母親と子供という組み合わせも多かった。いま何かと話題の「中年ひきこもり」にはちがいないわたしのような者はさすがにおりませんな。

暑い。
昼から肉屋。ドラッグストア。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。今日は持ち帰りで家族の分のドーナツも買う。
先ほど図書館で借りた、篠田一士さんの文芸時評集を読む。たまたま批評本の棚を見ていて見つけた。平野謙江藤淳に次ぐ毎日新聞での文芸時評(1979-1986)をまとめたもので、今はない小沢書店の刊行に係る。それこそ文芸時評なので、すべての活字を細かく読むというよりは、ざっと見ていきながら興味深いところは詳しく読むというような感じで、結構読んだが、なにしろ分量が多くてまだ全体の四分の一くらいか。篠田さんはそれほど犀利な批評家ではないように思われるが(何様)、まだまだ古典的な文学というものに信頼がある時代で、手堅く読んでいけるところがホッとする。例えばここまでで高く評価されているのは石川淳の『狂風記』や大西巨人の『神聖喜劇』など。一方で、村上春樹のデビュー作は「アメリカの新小説の下手な口真似」(p.34)と一刀両断であるし、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』はもう少し高く評価されてはいるが、それでも数行の言及に過ぎない(p.143)。こんな感じで、だいたいの評価基準がわかるのではないか。立松和平氏(わたしは一冊も読んだことがない)への高評価などはへえと思う。それにしたって、わたしの知らない、あるいは読んだことのない作家が多い。そこいらが、なかなかおもしろいのである。あと、詩・詩集が積極的に取り上げられているのはすばらしい(といってもわたしは詩は(詩も)よくわからないのだが)。続けて読む。


NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十五番 op.28 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。この曲はどちらかというと中性的な、ファンタジックなそれだと思うが、コヴァセヴィチは力強く男性的に弾いて少しも違和感を覚えさせない。すばらしいし、好ましいよ、これはまったく。■バッハの「音楽の捧げもの」 BWV1079 ~ 三声のリチェルカーレで、演奏はアルテ・レゾルタ(NML)。

Musical Offering Bwv 1079

Musical Offering Bwv 1079

篠田一士さんの前掲書、半分ほど目を通した。とにかく知らない小説、詩集ばかりである。もちろん、著者の要約するあらすじを読んでもどうしようもない。しかし、上に傲慢なことを書いたが、おそらく篠田さんの 100分の1くらいしか文学を読んでいないであろうわたしごときが、文学云々と言って、いったい何の意味があるのか? そして、わたしに篠田一士の何がわかるというのか? みずから疑問に思っているところである。
 一方で、わたしはこんなことも思う。篠田さんは小説の本質はロマネスクにある(p.248)と断言されているが、それはつまり、お話のおもしろさ、あるいは読んでおもしろいということか知らん、と。わたしの展開は幼稚であろうが、仮にその展開がそれほどのまちがいでないとして、じゃあそれはマンガやアニメとどうちがうのか。わたしは、マンガもアニメも、別にきらいではまったくないが、マンガを読むのもアニメを見るのも、かなり以前から重度の無感動になってしまった。凡庸にも、もう擦り切れてしまったのである。それに、既に老化してめんどうくさい。あるいは幾らかのマンガ・アニメが幼稚くさくて疲れる。じゃあ小説は読むとして、どうしてそんなことをするのか。確かにおもしろさを求めてはいるのだろうが、それでもどうして小説を読むのか、たぶん自分でよくわからない。小説がマンガやアニメとちがうとして、何がちがうのかもわからない。篠田さんの文学評は、いま溢れているマンガやアニメの評とさほど変わらないような気がする。いっておくが、それらマンガやアニメの評というのは相当に高度なものが存在していて、わたしなどにはめんどうなくらいだ。だからどうだというわけではないですけれども。ふむ。

わたしは、小林秀雄が散々拘ったところの、あの古くさい「文体」という語を何となく思い出す。わたしは「形」を見ている気がする。本書には、小林秀雄的な意味での「文体」という語はこれまでに一切登場していないと思う。かかる「文体」*1など、いまではまったく通用しない。小林的な意味での「文は人なり」ということは、いまや完全に消滅したのである。そんなことをつらつら思う。

*1:これは外国語に翻訳不可能である。もちろん、例えば英語の style などではない。