晴。積雪。

自室から。
長時間ぼーっとする。
昼。
國分功一郎『手段からの解放』(2025)読了。「シリーズ哲学講話」の二冊目。おもしろかったが、「楽しむ」などということをカントに依拠して究明せざるを得ないという現代の、「病的」たるを図らずも浮き彫りにしていると、ちょっといえるかも知れない。わたしはバカなので、「楽しむとは何か」という問い自体が、「病的」に感じられないでもないということである。そんなこと、いちいち「哲学的に」問わねばならぬことか?
しかし、本書を読むと、それはやはりされねばならぬ、という感想も浮かんでくるのである。我々はもはや、「楽しむ」ことがわからなくなってしまっている、そういう疑いが消えない。我々は、例えば一生「コンテンツ消費」に追われて生きることになっているが、本書は「そんなことでいいのか?」といっているも同然だからである。我々は(もはや)コンテンツ消費だけが「楽しみ」なのだが、それでいいのか?と。
もっとあるぞ。「私はお金をいっぱい稼げる、そしてもっている」という楽しさや、他人の上位に立つ、他人にマウンティングするという楽しさ――こういうのはどうか、とかね。
梶谷懐&高口康太『ピークアウトする中国』(2025)読了。中国経済の「供給能力の過剰と消費需要の不足」を軸に中国経済が分析されている。中国経済の「光」(EV、リチウムイオン電池、太陽光パネルのいわゆる「新三様」など)も「闇」(不動産価格の低迷)も、これに関係しているという。まあ何にせよ、わたしにはむずかしい本だった。それに個人的に、経済から見た「国家の繁栄」ということに、次第に興味が薄れていることがある。だって、皆んなそればっかじゃないか。国家が繁栄しようが衰退しようが、僕らは生きていくしかないのに。本書で使われている経済理論は、わたしごときには相当にむずかしいものである。例えば本書において「合理的バブル」の理論は重要だが、残念ながらわたしには理解し切れなかった。まあ、能力が乏しく、勉強もしていない素人なんだから、高度な経済理論を理解し切れなくても、当たり前かも知れないが。そればかりでなく、本書をきちんと理解するには、金利や為替、国家財政、貿易理論など、マクロ経済学的「常識」がどうしても必要だ。
以下は本書とは関係がないが、でもねー、ほんと、経済理論と我々の個人的人生と、そんな大きく階層のちがう問題が、いまはリンクしすぎていると思う。わたしは、人生というのは、ある程度のんびりとした「持続」をベースに、生きていくものだと思うようになったのだが、経済理論の扱う(グローバル)資本の回転は、あまりにもめまぐるしく、速い。そもそも、人生とお金が結びつきすぎていて、僕たちはお金のことばっかり考えて生きている。そんなことで、いいんだろうかというのは、バカ(=わたし)の素朴な疑問だ。文化もなにも、あったものじゃない。

