ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』

曇。寒い。

大垣。国道高架から見た、雪で覆われた伊吹山が見事だった。
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・スイーツパイ りんご+ブレンドコーヒー。温かいりんごパイが身に沁みる。
『資本主義だけ残った』第四章「資本主義とグローバリゼーションの相互作用」を読む。これはわたしに予備知識が足りなくて、かなりむずかしいな。著者はグローバリゼーションを基本的によいことと捉えているようだが、それは経済的な豊かさという観点からはそうなるだろう。グローバリゼーションが進むほど、世界はいろいろあっても、総体的に豊かな方向へ向かうことはわたしにも理解できる。はっきりとは述べられていないが、著者は定住ということにあまり価値を見出していないようだ。確かに、自分の故郷、自分の生まれ育ってきた土地というのは、この人工化した世界にあっては無意味なものになっている。土地というのは自然ということだが、自然から切り離された世界=グローバリゼーションということか。

昼からスーパー。

図書館から借りてきた、ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』読了。第五章(最終章)は「グローバル資本主義の未来」。未来への暗い予感を示す、説得的な記述が魅力的だ。まあそれにしても、本書のような中身のある本を、じつに手前勝手に読んでしまったものである。本書はいってみれば「米国型資本主義」を採るか、「中国型資本主義」を採るかという本だと読まれるだろうが、正直言ってわたしなんぞはそんなことにはあまり興味がない(こともないのだが、ここではそういっておこう)。第五章で展開されている記述の中でわたしにおもしろかったのは、我々の個人的な生活すべてが商品化されている、現在の(究極)段階の資本主義についてであった。これは別にいまさら新しい話ではなく、本章でもアダム・スミスとマンデヴィルを対比した時点から記述されていて、敢て書き込んである。つまりは、著者は人生のいろんなことをよく知った、深みのある学者なのだ。我々は既にセックスも子育ても人付き合いも娯楽も毎日の食事も、日々の個人生活を(経済合理性を以て計量するという意味で)「商品化」していて、それは若い世代ほど顕著である。自分の生活自体が究極の商品、「工場」であるのだと。それは、米国であろうが中国であろうが、日本であろうが同じことだ。そして、大多数の人がそこから出られないし、出るつもりもない。我々は生活のすべてを商品化、合理化して、いったいどこへ行くのだろう、というのは、わたしがネットを見ていて日々痛感するところである。――しかし、本書の敢てそんなところに反応しなくてもよいかも知れないが。
 本書の「正しい」読み方は、以前にリンクしておいた濱口先生や梶谷先生の文章を参考にされたい。しかし、もののよくわかった学者の好著は、わたしのような低レヴェルな者でも別様に楽しく読めるということである。

著者は、経済合理性が我々をアトム化、原子化することをよく理解している。それは生活の断片的商品化に直結する。わたし自身もそれを引き受けていることを感じずにはいない。

別の方に空想が及ぶ。わたしはいまの時代の「エンタメ」のあり方を随分不思議なように思っているのだが、これは一種の「感情の商品化」でもあろう。この時代のエンタメはすごいもんで、感動にうち震えたり涙を流したりするなんてことすらめずらしくも何ともない。それくらい、よくできている。そして、そこからあるいはつらい日常へ帰っていくのだ。勇気や元気をもらう、という言い方があるように。

夜。
宇宙よりも遠い場所』第8話まで観る。