因果律とアカデミックな学問

未明に目覚める。意識の端っこのちっぽけで局限された領域で、人と触れ合うような平凡で小さな夢を見ていた。そのまま、半睡半醒で一時間ほど過ごす。なぜかユーミンの「卒業写真」(1975)を思い出したり。たぶん、昨日読んだ岩田慶治さんの効果、絶大なんだろうな。平凡な日常の中に無限を感じること。万物の無限の連鎖。それが現在に凝縮されているのが、共時性なのか。五時頃、起床。
雨。
 
アインシュタインという人は最近、量子力学を理解できなかった物理学者という役割を演じさせられることが多い。その初期の偉大な業績である、特殊相対性理論に言及されることは、少なくなったように思われる。いま、共時性シンクロニシティ)という言葉を書きつけて、そういえば(特殊)相対論で主張されていたのは、同時刻の相対性ということであったなと思い出した。わたしたちはそれまで、宇宙のどこであっても、時間の「流れ方」は任意の地点で同じであると漠然と考えていたのであるが、相対論は、例えば我々個人個人で、運動の様子がちがえばその時間の「流れ方」もちがう、ということを明らかにしたのである。
 それを考えると、「共時性」とは不思議な考え方である。なんとなく、相対論と対立するように、思えないでもない。わたしの「現在」と、あなたの「現在」、それが同期するというのは、いかなることであるか。
 さて、こんなことは、ふつうの人間の平凡な生活に何の関係もないと、思われるかも知れない。しかし、じつはそれどころではないのである。現在のアカデミックな学問は、古典力学(相対論はその完成である)的な「因果律」を強固な基盤として作られている。ものごとには、時間の流れの中で、原因と結果がある、というアレである。そういう考え方が社会の土台を作り、我々の日常生活も、また「因果律」によって理解され、構築されているのだ。だから、我々「文明人」は知らないうちに、古典力学的な世界観の中で、生活しているのである。そのことは、わたしたちの人生観にまで、深く影響しないではいない。
 例えば、勉強をよくすれば、いい大学に入れて、幸せな人生が送れる。こんなのもまさに「因果律」による思考法である。現代経済学もまた、古典力学因果律によって構築されている。貨幣というのは、それで尽きるのか? わたしは知らない。
 なお、古典力学は完全な決定論であることを付記しておきたい。つまり、古典力学的な「因果律」を基盤とする現代のアカデミックな学問は、理系にせよ文系にせよ、完全な決定論の上に構築されているこということである。これは強調しておきたい。
 

 
大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。とろ〜り4種のチーズ&ミートパイ+ブレンドコーヒー457円。トニ・モリスン『暗闇に戯れて』を読み始める。雨のせいか店内が非常に混んでいて、ゆっくり読書するのは迷惑っぽかったので、早々に切り上げて出る。帰りも、道路がだいぶ混雑していた。
 
夜。
吉本隆明全集27』を読む。吉本さんがマルクスから得たという、いわゆる「自然史過程」だが、わたしはこれに違和感を覚えて仕方がない。というか、違和感があるのは、吉本さんの「自然史過程」の絶対視、といった方がよいか。もっとも、「自然史過程」は極めて強力であり、それを覆すことは、吉本さんの仰るとおり、まず不可能であると思う。それはいまでも、まったく変わることがなく、日々立証されているといっていい。さすがは吉本さんの思想、と思う。
 しかし、それで生じているのが、我々の感情生活のどうしようもない貧困化である。「自然史過程」というのは、強力なロゴス的知性の全面的展開だ。わたしには、「自然史過程」は西洋文明が開けてしまった、パンドラの箱のように思える。その帰結として、現代は「人新世」と呼ばれるようになった。本当に、吉本さんの仰るとおり、いったん動き出した「自然史過程」は止められない! 吉本さんなら、「人新世」を寿(ことほ)いだことであろう。
 それにしても、吉本さんの豊かなことといったら! 唖然とするほどである。自分が少し前に進んだからこそ、山の大きさが少しわかる、とでもいうか。貴重な仕事を、たくさんされたものだなと、つくづく思う。