中沢新一&小澤實『俳句の海に潜る』

晴。

モーツァルトのピアノ・ソナタ ヘ長調 K.533 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。この曲はふつう K.533 と K.494 を合わせてひとつのソナタとして演奏する慣例だが、リヒテルは K.533 の方だけ弾いている。じつは第三楽章として弾かれる K.494 が聴きたかったのだが、残念。なんともリヒテルらしいな。しかし、演奏は(録音の悪さにもかかわらず)すばらしい。僕はリヒテルはクラシックを聴かない人も聴いた方がいいと思うのだが、どうも余計なお世話ですよね。

ブラームスのチェロ・ソナタ第一番 op.38 で、演奏はジャックリーヌ・デュ・プレとダニエル・バレンボイム

モーツァルトピアノ三重奏曲ト長調 K.496 で、演奏はクララ・トリオ。クララ・トリオは先日すばらしいシューマンYou Tube で聴いて知ったのだが、このモーツァルトもまたすばらしい。感嘆させられる。射程がすごく広くて勉強にもなるし。これがいまどきのいい演奏家なのだ。

リヒャルト・シュトラウスの「最後の四つの歌」(歌詞)で、歌手はエリーザベト・シュヴァルツコップ、指揮はジョージ・セル。甘美で骨まで蕩けてしまいそうな演奏だ。ほとんどメロドラマに近いような曲だが、やはり名曲中の名曲だろう。それにしてもリヒャルト・シュトラウスというのは変な作曲家だな。

昼から仕事。
中沢新一&小澤實『俳句の海に潜る』読了。まあ何という本であろうか。僕は俳句については殆ど何も知らないが、母が長らく俳句をやっているので、門前の小僧くらいのことはある。それにしても、俳句が古代的精神に繋がっていくものであり、都会的で洗練された和歌とはまったくちがうものであるというのは、じつにおもしろかった。中沢さんにいわせると和歌(短歌)はもうダメであるようだが、俳句の生命はまだ尽きていないというのもおもしろい。それで思うのが、日本以外において「短歌」にはまったく生命力がないが、俳句の精神は外国人を強く惹きつけているという事実である。本書では俳句の「アニミズム」が主題のひとつで、それもその俳句的アニミズムは深い底をもっているということだ。根源的な「モノ」性であると言ってもいい。そして、自然と、世界と薄い皮膜を通してコレスポンダンスしているということ。いや、言われてみればそのとおりで、まさに目からウロコが落ちたような気にさせられる。
 それにしても中沢さん、どうして本をちっとも出さないのか。あんまり出さないので、本書の出版にもいまごろようやく気がついた。単行本未収録の分量は相当にある筈なのに、中沢さんにその気がないのか。それとも売れないからか。自分も含めてニセモノばかりの世の中で、中沢さんはきわめて稀な本物なのに。いまや「本物」とか言うとたぶんバカにされますよね。言わない約束(?)なのだが、さてもひどい時代になったものである。

俳句の海に潜る

俳句の海に潜る

本書で中沢さんがちょろっと、いまの地方は大変なことになっている、地霊が生き残れるかの瀬戸際で、ニセモノがいっぱい出てくるだろうと仰っていたのが強く印象に残った。自分もまた地方のニセモノであるが、何とか本物が出てくる手助けになれるといいのだが。せめて邪魔はしたくないものだ。
小澤實さんについては何も書かなかったが、それは自分が俳句を知らないからで、こんな人がいたのかと思った。心にとめておきたい人になりました。

山形浩生さんのブログの「アマゾン救済」を引き続き読んだが、高校時代にボルンの本で相対論を勉強して、ローレンツ収縮より先に進めなかった苦い思い出があると書いておられて、そりゃボルンなんか使うからいけないと思った。あれは大学で物理を学ぶ人向けで、決してやさしい本ではない。特殊相対性理論のさわりだけだったらもっとわかりやすい本があって、山形さんが挙げておられた本(僕は未読)のように高校数学で充分理解できる。もちろんいまの山形さんがローレンツ収縮くらいが理解できない筈はないので、高校時代に勉強したというのがさすがというべきか。もちろん特殊相対性理論でも大学院レヴェルの問題はいくらでもあるし、一般相対性理論になるとさすがに大学レヴェルの数学ができないと無理だけれども。