晴。
●第739回:「いい外国人」と「悪い外国人」の選別が、「日本人」にも向けられる時。の巻(雨宮処凛) | マガジン9
つい日本のひどさを感じてしまうが、フランスとか、日本よりもっとひどい状況かも知れないな。
原理的に考えてみる。まず、そもそも言葉はあれとこれとはちがう、という、「選別」の機能をもっていること。一言「スミレ」といえば、我々はスミレとそれ以外のものを区別、さらにいえば、「分断」することになる。
それから、仏教でいう「大悲の心」。我々は他人を「感じる」「あわれむ(誤解を受けそうな言葉だが)」という(つまり、生命は生命を感じる)本性をもっているが、それ以外に、他人と「繋がる」ための根拠は原理的にないということ。
このいずれも、現代ではよく理解されていないことだと思う。他人を「感じる」ことを忘れ、「言葉」をいろいろいじくっていれば、そのうち他人というものが操作可能な「記号」になってしまう。そうなれば、もう、彼や彼女に対して、我々はどんな(非道な)ことだって、平気でできる。我々はそれを、現にガザで見ているが、あれはわたしたちの現実そのものなのである。
他人を「感じる」ことだが、心が文明や文化のゴミでいっぱいになっていると、センサーやアンテナの機能が劣化し、ゴミというノイズに紛れてしまって、他人を「感じる」ことができなくなる。現代は、誰もが多かれ少なかれそうなっている。
NML で音楽を聴く。■シューマンの幻想曲 ハ長調 op.17、「幻想小曲集」 op.12 で、ピアノは三村智子 Satoko Mimura (NML)。ピアニストについてはまったく不明。これほど検索に引っかからないのもめずらしい。レーベルは RBM Records。


祖母の素朴なバラ、11.11 に撮ったもの。(母方の)祖母はわたしが小学校へ上がる前に亡くなった。もう、50年も前のことになる。